視野狭窄ノスゝメ

半径ワンクリック」の時にも感じたことだが、どうも情報の取得範囲を絞ることは悪と見做されている節がある。
確かに、普段目にしない情報源から重要な情報を得ることはあるし、そうやって知見が拡がることは歓迎すべきことだろう。けれど、そのための代価として大量のノイズを人力フィルタで処理する労力が引き合うだろうか。
視野が広いのは良いことだが、まったく興味のない範囲にまで拡げることはない。望ましいのは「興味ある対象を追ううちに自ずと視野が拡がる」ことであって、「最初から全体を見渡す」ことではない。むしろ慣れぬうちは狭い範囲から始めた方が良いのではないかとすら思う。
逆に、フィルタリングだけでなく関連情報の抽出が高い精度で処理できるようになれば、自分が気付かなかった情報までシステムが拾い上げてくれる可能性だってある*1
あらゆるもののうち90%はクズだが、事前処理によってその90%を削除できるのであれば、残り19%中の10%が玉、即ち有効数が50%を越えることになる。その状態で見える世界は、かなり違ったものになるだろう。


考えようによっては、視野が狭窄するということは余計な情報に惑わされなくなるということでもある。例えば仕事で使う端末は仕事で培われたフィルタが、自宅の趣味用端末は趣味に特化したフィルタが育ってゆけば、それを通して届く情報の質も環境に応じて異なってくる。無用な情報に気を取られることもないし、検索結果でも広告でも、届くべき相手にだけ届く。もはや広告のターゲティングなどというものは必要なくなって、「誰に押し付けるか」ではなく「必要とする人だけが取得する」ものに変わるだろう。誹謗中傷や無為な議論の多い場の情報は、そういうものを好む相手にしか届かなくなり、それ意外の大多数にはそもそも意識もされない。


こうした「自動的な検閲」を良しとしない向きもあろうかと思う。「知っているが見ない」のと「そもそも存在さえ知らない」のでは意味が違うし、一通り様々な世界を知った上で、好ましくないものだけを避ける術を学習すべきという意見は尤もだ。
けれど、実はフィルタリングそのものは今までもあったのだ。普段それを強く意識しなかっただけで。
たとえば性的・暴力的コンテンツは若年層に届くべきでないとされ、フィルタリングされてきた。思想的・学習的情報は親や教育委員会の意向を受けて偏る。地域ごとに情報の質に差が見られるのも珍しいことではない。これらはすべて、社会的なフィルタリングが働いた例だ。
情報伝達技術の発達によって無効化されたこれら社会的フィルタリングを技術的に復活させるべきかどうかは判らないが、少なくとも自分の意志で不要な情報を切り捨てるための手段が発達すべきだとは思う。それは能動的な取捨選択の結果であって、決して情報的引き篭りなどではない。

*1:現実に、はてブを処理してお奨めエントリを表示するサーヴィスによって有用な情報を得ることもある-----現在のところ、まだ精々1%程度だが