サーヴィス業としての大学

大学は理想に殉じ、底辺の学生を見捨てる。」は意図的に曲解しているような気がするが、確かに大学は学費の対価として教育を提供するサーヴィス機関であるし、金を払っている以上客として文句を言う権利もあろう。
ただ、どんなサーヴィスでもそうだが、金を払った上でサーヴィスを拒否するのは客の自由であり、それにサーヴィスを強要することはできない。大学の場合、しばしば出資者と享受者が異なるために「金は払ったがサーヴィスを拒否する」という状態が起こり易い。
出資に見合う教育が提供されないならば問題だが、教育を拒否したがために出資ほどの効果が上がらなかったならば、それは大学の問題ではなく享受者の問題である。


出資者と享受者が異なることを前提に、出資者に対して「半強制的に授業を受けさせる」オプションを提供するということは有り得る。全寮制にして否が応でも授業を受けざるを得ない体制にするとか。
しかし、そうやっても成果が上がるかどうかは、結局のところ学生次第だ。


まあ「大学の体制に問題がある」というのは判らぬでもない。日本の大学は入った後が楽だと言われる。碌に学習していなくても、なんとか単位を貰って進級/卒業する道が確保できるようになっており、結果として「親元を離れて遊び呆ける」ための時間として使われているようなものだ、という認識は親も学生も持っているだろう。
そういう「お情けでの進級/卒業」というシステムを改めて、きちんと成果を出さない限り進級できないような形にするというのは建設的だと思うが。