「エア御用」問題に見る認識のズレ

エア御用、という言葉がある。なかなかややこしい定義で、まず「お上に雇われ、学識をねじ曲げる学者」を意味する「御用学者」が先にあり、次いで「雇われてはいないのにお上に与する見識を述べる者」として「エア御用」がある、という構成だ。
はっきり言えば極めて恣意的な定義である。「正しい見識」がどのようなもので、それに対して「どのように間違っている」のか、ということを見定めるのは、少なくともその道の専門家でもない限りはほとんど不可能なことだが、実際に「エア御用」と呼ぶ側は何ら専門知識を持たぬ市民である。実質的にこれは「自分の信じることを否定するものをエア御用と呼ぶ」に等しい。
あらゆる問題について適用可能なレッテルではあるが、現状これは原発事故に絡む諸問題について「自分たちが信じる危険性よりも安全な認識を示す者」に対して用いられている。


この恣意的な呼称に対する、「市民」の側からの正当性主張は概ね次のようなものであるらしい:

  1. エア御用というレッテルは悪意から生じたものではなく、学者の側にそう呼ばれるに相応しい実態があり、それに名付けが行なわれたに過ぎない
  2. 少なくともそう呼ばれる学者らが当初主張していた状況よりも現在は明らかに悪化しており、安全を騙った罪は重い

しかし1については「実態があった」という認定はレッテルを貼る者によるもので、そこが広く認められない限りは一方的なレッテル貼りとの謗りを免れるものではないし、2についても当時の情報量を前提とした現在との認識相違や、その後「御用学者」の人たちが認識を変えたかどうかを考慮していない点については指摘しておくべきだろう。


まあ批判はこれぐらいにしておこう。私が着目するのは、双方の認識のズレである。
少なくとも、学者の側は「その時々の最新情報に基づき適切な判断を下している」という自負がある。それが学者の本分であるからには当然のことだろう。それに対し、「市民」の側はあくまで「不適切な判断であり恣意的に歪めている」と見ているわけだ。
……いちいち「市民」とカッコ付きで書いているのは、彼らが実際に市民を代表しているわけではないという認識によるものだが、今のところ適切な括りがない。ここではひとまず、エア御用呼ばわりをする人たちを仮に「エア市民」と呼んでおくことにしよう。単に「自称『市民代表』」で良いのではないかという話もあるのだが、単に代表を自称しているだけではなくエア御用というレッテルを好んで用いる人たちという意味を込めての造語である。


単純な話、エア市民の方が科学的に正しい判断が下せると考える理由はない。彼らは科学の専門家ではないからだ。必ずしもエア市民の求めるものが科学的判断であるとは限らないが、こと原発事故問題に関する限り、必要な判断の大半は科学的な事柄だし、主に科学者の判断を相手取ってエア御用呼ばわりしている以上は科学的見解こそが主眼であるのは間違いない。
いずれにせよ、自分たちが何を求め、何を批判しているのかは明確にせねばならないし、その道の専門家を相手にするのであれば対等に会話できる程度の知識が要求される。また「集団としての統一見解」を示せないのであれば個々人が各々の責任に於いて矢面に立つ覚悟をせねばならない。はっきり言えば現状、エア市民の側にそれだけの構えがあるとは思えない。


ただ、多少の擁護もしておくなら、エア市民の判断の一部は確かに「学者側が原発事故の発生当初に於いて半年後の状況を正しく見通せなかった」ことから生じているとは言える。確かに、いくつかの点について誤りはあったのだ。


当時、たとえば「第二のチェルノブイリ事故になるのではないか」という危惧に対し、「チェルノブイリのようにはならない」という発言があった(私もその認識に立った一人である)。
これはある面で正しいし、ある面で間違っている。
チェルノブイリ原発はその構造上、ひとたび暴走するとそれにより生じる反応が更に暴走を加速させる構造であった。また水蒸気爆発により炉心及び建物外壁が大きく損傷し、反応中の剥き出しの核燃料が空気中に露出したことで広範囲に極めて重大な放射能汚染を引き起こした。
対して福島原発では圧力容器内の蒸気放出による部分的な漏洩と冷却水の漏洩などが中心で、核燃料そのものの露出は生じていない。「構造的にチェルノブイリのようにはならない」というのは正しい。しかし放射能汚染レベルはチェルノブイリと同じレベル7ということになってしまった。これとて区切られた段階こそ同じながら拡散した放射性物質の総量では1/10程度であるが、これを「チェルノブイリと同じ」と見るか「チェルノブイリとは違う」と見るかは、そもそも「チェルノブイリのように」の定義が曖昧である以上は解釈に幅があり、見る者によって違う。


また、当初「メルトダウンはない」とされたものの、後に炉心溶融が生じていることが明らかになってもいる。これは当初、原子炉の状況が正確に伝えられていなかったことも原因のひとつであるが、他に「メルトダウン」という言葉に明確な定義がなく、「炉心全体が溶け落ちて周囲の隔壁まで突き抜けるような状態」と取るか、「燃料棒の融解」と取るかで随分と話が違ってくるという点も考慮せねばならない。後者の意味でのメルトダウンが生じたことはその後明らかになったが、前者の意味でのメルトダウンは起こっていない。


何にせよ、このように互いが「同じ語を使ってはいるが想定状況が全く異なっていた」ことによる齟齬を認識解消できずにいたことが不信を拡げたのは明らかだろう。
「科学的に正しく判断できない」人を相手にするからこそ、この問題については科学の側から歩み寄るべきものであろう。当時の状況で、科学者という立場にある者が見通しを述べることには少なからぬ「責任」が生じる。語の定義も曖昧なまま、一定の留保抜きに(あるいはそう受け取られる状態で)判断を下してしまったことについては迂闊であったと言わざるを得ない。


無論、一方的にエア市民側を擁護するものではない。彼らは自分が科学を知らぬということを率直に認める必要があるし、その上でまともな放射線の知識を身に付けねばなるまい。少なくとも、現在のエア市民らにそれがあるとは到底言えない。なにしろ「科学的であること」そのものを御用に与するものとして退ける傾向にあるのだから、まともな判断の下せよう筈もない。


一部では「安全バイアス」などという言葉で以て「危険と考えぬ奴はすべて御用」のような乱暴な分類をする事例もあるようだ。リスク評価は過少でも過大でも悪影響を及ぼす。「人命を尊重し最大限の対策を」などと言っても、「じゃあ福島原発に近寄らないように日本列島を無人にしよう」などというわけにも行かない。リソースは有限であり、対策とは常に費用対効果を見てバランスを決めるものだ。敢えて言うなら、「一人の被害も出さぬように」する態勢にはなっていないし、実際それは無理というものなのだが。


いずれにせよ、事故発生当時に現在の状況を見通せず誤った見識を述べた者については、そのことをきちんと反省せねばならないし、また定義不明瞭なままに話を進めてしまったことについても見直さねばならない。
逆にそれらを批判する側も、当時の状況下に於ける判断というものをきちんと見直さねばならないし、また誤りが訂正されたものについてはその再評価を、そして何より、一方的な非難ではなく対話による相互理解を求めねばならない。
その上でなお、「エア御用」という言葉を使うことになるのかどうか、よく考えられたい。