科学的な批判と「欠如モデル」の話

先のエントリは、「市民の科学知識」に関する限り典型的な「欠如モデル」を採用している、と言える。
欠如モデルとは、まあ要するに「お前に知識が欠如しているのだ」という前提に立つ論、である。
コミュニケーションの観点からすると、あまり歓迎されない方式だ。誰だって「お前は知識が少ない」なんて言われて嬉しくはないだろう。大体に於いて、こういう物言いは反発を招くもので、対話の方法論としてはあまり宜しくないとされる。
しかし、問題が純然たる科学知識の上にあるものである時(たとえば放射線や予防接種のリスクなどがその典型例だ)、そのことをきちんと認識するには知識が必要不可欠であり、相手の理解がその不足によって歪められている時、その指摘なしに話を進めることはできない。するとどうやっても「欠如モデル」にならざるを得ない。


内容が内容だけに、欠如モデルという物言いは主に批判的に用いられている。「そういう言い方をするから悪い」という話だ。しかし、それを言って良いのは実際に知識を持っている人だけなんじゃなかろうか。本当に欠如しているなら、「欠如してるって言うな」というのは単なる逆切れじゃないのか。


まあしかし、「総体としての」市民を相手にするのであれば、確かに「知識が欠如している」というのは些か不適切だ。少なくとも大学卒業程度の教育を受けた人は少なくないし、専門的な職に就いている人だっているだろう。それだけでなく学識者が参加していても何ら不思議はない。そういう前提に立てば、欠如モデルを使わない対話を考えるというのは確かに現実的な話と言える。
ただしそれは、確かに知識に基いた判断が下されていればこその話だ。知識のあることが示されればこそ、欠如していない前提に立った話ができる。しかし不確かな理解しか示されない状態であれば、嫌が応にも欠如モデルで接するしかあるまい。


海外での事例はよく知らないが、日本に限って言えば「市民運動」が纏まりを持って機能することはあまりないようだ。明確なリーダーを中心に纏まるのではなく、大目標(例えば「反原発」のような)を旗印に掲げこそすれ、それ以外の点ではあまり共通性がない。当然ながら、情報や理論も充分に共有されることはなく、情報の取捨選択は「旗印に合致するか」だけが基準となり、正確性は問題にされない傾向が強い。
そのような状態での対話に於いて、欠如モデル的な振舞い以外の方法をちょっと思い付かない。


ところで、あまり問題視されて来なかったことだが、実は「市民」の側もまた欠如モデルを用いている。「専門家は何もわかっちゃいない」という発言がそれである。
専門家側のそれに見下した部分や抑圧的な面がないとは言わないが、少なくとも「何が欠如しているのか」「実際にはどうなのか」という指摘は含まれているから、(感情的な反発さえなければ)欠如した知識を埋めることは可能な筈だ。
しかし「市民」のそれは実に「わかってない」以上の情報がほとんどない。「何が欠如している(と市民が考えている)のか」、「正しい情報はどう(だと市民が認識しているの)か」、がすっぽり抜け落ちているのだ。それでは、専門家の側は動きようがない。
対話とは相互理解のためにあるものだ。理解を拒絶すれば「対等な話」ではなくなる。しかもその中に揶揄や侮蔑を含むとなれば、それはもう純然たる「差別」だ。