「中立」を装うのは裁定者を標榜するため

彼らはなぜか自分を右でも左でもないと主張したがるという傾向がある。右でも左でもないなら、極度に政治的な話題には立ち入らなければいいのに、それでもあえて踏み込んでなおかつ左右どちらでもないと強調する。


どうも、右や左という政治傾向を露わにすることが、知的にスマート(重複表現だなこれ)ではないみなされると思っているようだ。政治的に偏りがあることは、すぐさま自分のイメージに傷が付くと考えているのでないか。イメージを傷つけずに政治的話題に介入するには、どっちもどっちとしてまず機械的に両者を等距離においてそのあいだに自分が収まる必要がある。同時に、両者の主張を知らないということを強調することが重要になる。どちらかの主張をよく知っているということは政治的な偏りの証拠に他ならないからだ。


その一例として今回の件での中立者は、自分は右でも左でもないので、左がかった学者による事件の入門書などを読みたくないと思っているし、完全否定論がトンデモであることくらいは小賢しくも嗅ぎつけているので、そこにも与さないというスタンスをとることになる。fromdusktildawn氏のスタンスはそうしたプロセスの必然的な帰結だろう。無知だからどっちもどっちという結論になるのではなく、そういう人は中立を維持するために無知でいる必然性があるのだと思う。

中立を標榜するのは実はスマートなイメージの問題ではなくて、

彼らは中立というポジションが、楽に手にはいるとでも思っている。しかし、裁判官が基本的にそうであるように、検察、弁護側どちらにも与せず中立的な判断を下そうとするのなら、両者の主張を十分に理解し、照らし合わせて検討するという作業を必要とする。中立、中庸というのはそうした手続きの後にはじめて成立するのであって、右とか左とかの立場を選択するよりもはるかに苦労を伴うもののはずだ。
つまり「裁判官」の立場に立ちたいのではないかと。
右も左も、主張する側に決定権はない、中立の自分こそがそれに正しく裁定を下すことができるのだ、と。
そうして中立を裝って、自分のイデオロギに従った判定を行なうわけだが。