差別を退けるということ、違いを認めるということ

私は差別という行為の存在を許容しない。これは別段、博愛精神だの善性だのといった信念から生じたものではなく、あくまで合理主義に基づく判断である。


差別という行為を簡潔に定義すると「自分と異なるものの排除」ということになる。排除は場合によって同化という形で表出することもあるが、「自分と異なるもの」をなくしてしまうという点では違いがない。
「異なる」とは言うが、無論人間は一人ひとり異なっているわけで、要するに差別というのは万人がその対象たり得るのだ。
「なぜ人を殺してはいけないか」との問いに野坂昭如は「殺しなさい、ただ君も殺される」と答えたというが、とまれ権利というのは常に双方向的なものであり、自身に差別の自由を認めるならば他人にも自分を差別する自由を認めざるを得ない。つまりは互いが互いを排除あるいは同化する皆殺し世界の成立である。
「差別を認めない」ということは、言い換えれば「違いが違いとして存在することを認める」ということだ。


勿論、「違いが違いとして存在することを認める」スタンスに則り、私はあなたが差別的な思想を持つことも許容する。ただしそれは行動に出ない内だけだ。物理的に排除を試みることは勿論、差別思想を他人に示してもいけない。何故なら、差別を宣告すること自体が被差別者への排除圧力であるから。言論の自由?勿論、自由はある。ただし他者を抑圧しない範囲に於いて。


ところで、この理論はあくまで人間が平等な権利を有するという前提の上に成立しているので、あなたが自分の特権性を信じるならばこの判断は必ずしも正しくない。しかし何らかの人間を超越した特殊な能力でもお持ちでない限り、特権というのは常に他者により簒奪され得る程度の代物に過ぎず、従って特権を振り翳し他者を抑圧する権利を自らに認めるということは同時に自身踏み躙られることをも許容するということになる。まさに「殺しなさい、ただ君も殺される」だ。


真に利己的であろうとするなら、利他的に見える振舞いを要求される。半端な利己主義は己が為になるどころか、徒に自らを貶めるだけだ。