負けを認めるまでが議論です

「負け」っていう表現はちょっとアレだが。


「主張」でなく「議論」であるなら、参加者の目的は「何らかの合意を得ること」になる筈だ。全面的な合意でなくとも構わない──というか、「断言できない」というような曖昧な状態を認めることも含めて合意ではある──のだが、少なくともある点に於いて参加者全員の意見が一致することこそが議論の終着点であり、それまで議論は(中断されることはあっても)終わることはない。


合意のない状態から合意に至るということは、少なくとも意見のいずれかが当初の主張から変更されること、言い換えれば「最初の主張は間違っていた」と認めることに他ならない。これを「負け」と表現するのは好ましくないが、まあとにかく、曖昧に済ませるのではなく意見の変更をはっきり表明することが重要だ。そうすることで本人の自覚を促し、周辺ROM者にも状況をはっきり示すことができる。議論はここに至って漸く「終結」するのだ。


間違いを認めることは何ら恥ではない。誰しも間違うことはあるものだし、とりわけ前提知識が正しく与えられなかった場合は致し方ない。自分が正しくないと知ったなら正しい知見に鞍替えするのが真の誠実さというものだ。
本当に恥ずかしいのは自らの過ちを認められないことの方で、本人は負けていないつもりでも周囲が見ると滑稽なほどの大敗である。
英国のブラックコメディ「モンティ・パイソン」に、「アーサー王と円卓の騎士」のパロディネタがある。この"主役"は敵である黒騎士で、アーサーに勝負を挑むがあっさり返り討ちに合い腕を落とされ足を切られ、みるみる戦闘力を失いながらも「今のは本気じゃなかった」「真の力を見せてやる」などと嘯き、最後は「今日のところはこれくらいにしておいてやる」と言い放って立ち去……ろうにも両足がないのでアーサーの方が黒騎士を放置して去るという(笑)これに倣って一部では無敗論法の論者を「黒騎士」と呼ぶことも。


無敗論者の特徴は、

  1. 都合の悪い質問は無視するか質問で返す
  2. 論拠の矛盾を指摘されると別の論拠を持ち出すが、両者間の整合性には気を払わない
    • この事から論理的帰結として結論に至ったのではなく論破を目的として都合良い証拠を集めたに過ぎないことが判る
  3. 著しく読解力に欠けるため、しばしばこちらの発言を極端に歪曲して答えを返す
  4. 勝利宣言を繰り返す

など。まあどこにでも居る手合いではあるが。