口調の過激化

論争に於いてはしばしば、双方が激昂し激しい口調で半ば罵り合うように激論を交わす様が見られる。
内容の如何に関らず周囲の心象はあまり良くないし、場合によっては当人たちも売り言葉に買い言葉でまったくの喧嘩になってしまうことさえある。
最初に議論を始めた契機は恐らく、相手を含めた周囲に異なる考え方を理解させようという目論見なのだろうと思われるが、こうなっては丸切り逆効果である。それは両人とも判っているだろうに、どうしてそんなことになってしまうのか。


多分、最初にちょっとキツめな表現を使うところは、周囲にインパクトを与えることを期待してのことなのだろうと思う。幾千言葉を連ねても、何の反応もなければ言いっ放しで終わってしまう、それよりは物議を醸して、この件について深く考えてもらう端緒となるように仕向けたい。
当然、その発言はいくつもの波紋を呼び、カチンと来た側は同じように強い調子で批判する。
このとき、互いに自身の発言の呼び起こすであろう炎の大きさを認識している筈である。ただ、実際のところ「実際に相手がどう取るか」を100%予想し切れるわけではない。予想外に重大に受け止められてしまって、事前予測よりもキツい言葉が返ってくることもある。
そうすると今度は「俺はこの程度に留めたのに奴はここまで言いやがって」などと段々興奮してくることになる。
ここまでは初期段階。


さて、一度語気荒くなってしまった議論は、双方そう簡単には引っ込みが着かない。怒鳴られて引き下がってしまった場合、論理面でどうであれ勢いの問題として傍目には「負けた」ように映ってしまいがちである。少なくとも、論者としてはそのような判断がどこかにある。
議論とは決して互いの間でのみ諒解が得られれば良いというものではない。いや、それが建前上の目的ではあるのだが、実際のところ論を交わす当人は互いに決して相手を納得させられないであろうことを予期していることが多い。では何のために議論するのかと言えば、外野に見せるためである。
公衆の面前で行なわれる議論の勝敗を実質的に決定するのはギャラリーであり、必ずしも論理のみで決着を見るとは限らない部分がある。論理的な正しさにはアドヴァンテージがあるが、全体の空気を覆すに至らなければ、主張の正しさとは無関係に「負ける」ことが有り得る。
それを恐れる/期待するあまり、両者とも勢いに頼りがちになるわけだ。


しかし実は、外野というのは結構冷静なもので、当人のみが熱くなっているのを冷やかに観察していたりする。そうなると逆に、口の悪い方が心象を悪くし、主張をきちんと汲んでもらえなくなる。本質的には罵り合いは却って不利なのだ。
真に強靭な論者であるためには論理的であらねばならず、それには徹頭徹尾冷静であることが求められる。しかし残念ながら感情は強力な衝動を以て心を揺さぶる。スピードが求められる部分のある公開討論では、そうそう冷静ではいられないのが実情である。