粘着気質

時折、Blogのコメント覧で、エントリ内容と関係なく筆者に絡むコメントを見掛ける。
Blogのコメント覧は、交流にせよ議論にせよ、直接的にはエントリに対する意見の場を意図して設けられた機能であるので、そこに無関係なコメントを投稿するという行為は基本的にspamと同列といって良い。1回限りの挨拶程度ならばともかく、長文で執拗にエントリを無視した投稿を続けるような輩は単なる荒らしである。


「荒らし」ではなく「粘着」と称するのは、この荒らし行為がごく少数、多くは同一人物と目される*1人物による「しつこい付き纏い」であるためだ。
エントリと無関係な投稿である以上、筆者とその内容について対話しようという意図はないものと見て良い。では何のために投稿するのか?-----無論、個人攻撃のためだ。


粘着が最初から個人攻撃のために投稿してきているのか、それとも途中から粘着に転じたのかは不明だ。悪意から来た行為ではなく、何らかの社会正義(と信じるもの)を全うする目的で行動しているようにも思える。いずれにせよ言えるのは、彼らが攻撃対象とした「意見」とそれを発した「個人」を区別できない、あるいは意図的に混同しているということだ。
それが単なる批判であるなら、(その内容はどうあれ)元のエントリにコメントすればすむ話だ。ところが実際には、粘着は無関係なエントリにまでけちを付けにくる。個別のエントリに対する批判ではなく、粘着の開始点となったエントリへの弾圧、あるいはその批判に対し充分な(と粘着が認定する)返答が得られないことへの罵倒、更には筆者個人への批判や筆者の味方をするすべての者への誹謗である。
トンデモさん観察について触れたエントリ中で、仮定を仮定と認識できない人の話を書いたが、意見と個人が区別できないのもそれに似ている。また往々にしてこういう人々は自身の動機についても混同し正常に認識できていない。実際に粘着する動機は「自己愛が壊れるから」である場合が殆どだと考えられるが、本人にその自覚がないので社会正義を標榜したりする。


こういった特徴は、傍から見る分には容易に区別可能なのだが、本人が自覚を持つのは大変に難しい。区別できていながら悪意を持ってわざとやっているなら別だが、そうでなければ判断能力に何らかの問題があると考えるべきだろう。
自分が粘着していると認識できるならば(そして自制できるならば)まだ救いもあるのだが。


「荒らすことによって情報の有用性を下げて、不利な情報が人目に触れないようにする工作」という可能性を失念していた。

帰属意識としての粘着可能性


どうして公開の場で「ああ、根拠も無しであさってなコメントを書いちゃって、お気の毒な人なんだろうな」と思われるようなことを書く人が居るのかが不思議だったのだけど。「それは、共通の誰かを罵倒する事によって、おれも同じ人が嫌い仲間という帰属意識を確認し合っているのではないか」という分析を教えられて、目から鱗が落ちた。なるほど。客観的に知性がお気の毒に見られる事はどうでも良くて、「好きか嫌いか」とか「仲良しグループか敵対グループか」という判断軸で生きている人は居ても不思議ではないよな。
なるほど。帰属意識を共有するために数人で粘着する、という可能性はあるな確かに。
逆に、たとえばここのエントリ自体がそうした「帰属意識を共有するための罵倒である」という可能性(あるいはそう取られる可能性)もまた否定できないけれど。


穿った見方をすれば、すべての意見表明は同意を得て仲間意識を共有するために行なわれると言えなくもない。ただ、そこに「帰属」が存在するかどうかはまた別の話だが。
本来議論とは、同じ意見を集めるためものもではなく、反対意見も含めて合意を形成する(前提条件や言葉の定義などの面で合意した上で、異なる結論に辿り付く)ためのものだと思う。そこにあるのは、どう表現したら良いか……「互いを認め合う」といった意味合いに於いての共有意識のようなものはあれど「帰属」ではないものだ。

*1:断言できないのは、ほとんどの場合固定的なアカウントを有しない匿名による投稿であるから。それでも同一人物であろうと認識するのは、文体や主張の特徴からの判断