メタからしか見えぬもの、メタからでは見えぬもの

「科学も宗教」論が俄に波紋を読んでいるようだ。
こうした論は別段目新しいものでもなくて、何度も出てきては何度も説明され尽くした代物に過ぎない。
ただ、ちょっと気になることがあったので書いておく。


議論の上で、メタな視点というのはそれなりに有益である。各論に熱中するあまり大元の問題を失念するような状況は結構多いもので、それを一歩引いた場所から見て整理する人がいると、話はスムーズに展開し易い。
……が、それは論点を整理して大元のレヴェルでの議論を仕切り直すからであって、「メタレヴェルでの議論」となってしまうと話が別である。
各論での些末な議論が元々は反証の結果であるのと異なり、メタ議論は議論の前提そのものを覆す手法と言えよう。そうした論から新たな展望が見出されることも無論あるわけだが、少なくともそれ以前に展開された議論はまったく無視されてしまう。それこそ「話が違う」のだ。


先日の神舟7号事件の時にも見られた現象だが、展開された議論に対する反論のつもりでメタに意見を引き上げようとするのは悪手である。やった本人は一人優位に立ったつもりで悦に入っているのかも知れないが、周囲から見れば「顔を洗って出直せ」程度にしか扱われない。
敢えてメタを展開するなら、現在の議論が収束したところで関連するが別の話題としてやるべきだろう。


「味噌も糞も一緒」なんて言葉があるが、議論をメタに引き上げるというのは味噌と糞の違いを論じる場から糞味噌一緒の視点に飛躍することである。実利的な視点として味噌と糞をどう区別するかという話をしているのに「区別しなけりゃいいじゃん」と言ったら叩き出されるのがオチだ。それは「大局的に見れるオレ様カコイイ」ではなく単なる馬鹿なので注意すること。