懐疑論に於ける笑いの効用と副作用

懐疑論とは「信じる前にまず検証する」ことを重要視するという思想である。名前から想像されるように、あらゆるものを疑ってかかるという意味ではない。既に確固たる事実と確認されたことまで疑うのではないが、新たな主張については受け入れに慎重であるべき、事実と認めるに足るだけの検証が為されるべきというのが、懐疑論者の主張である。


要するに懐疑論それ自体は方法論であってイデオロギーではないということだ。従って「懐疑論者」なるグループは実のところ手段のみを同一にする様々な主張の持ち主の集合体ということになる。
とは言え懐疑論者は構造的に科学と親和性が高く、結果的にイデオロギーたる様々な非科学との対立姿勢によって「反・非科学」というイデオロギーを持たざるを得ない面がある。


純粋な懐疑に於いては淡々と検証の不足、論理矛盾を指摘すれば事足りるが、反・非科学という方針にとってはそれではあまりに非力である。数々のセンセーショナルな煽り文句を提げて次々に無根拠な主張が登場する中、慎重を旨とする懐疑論者と雖もひとつひとつの検証に多大な時間を割くことはできず*1、いきおい対抗言論として相手のデタラメな主張をまとめて吹き飛ばすだけの威力というものが必要になる──しかも「懐疑論」の土俵から下りぬままに。
そのために登場したのが「笑い」という武器であった。これには2種類の効果がある:ひとつは、「これは思わず笑っちゃう程度の稚拙な主張ですよ」というイメージ戦略により、予め非科学的主張を受け入れ難い素地を作ること。もうひとつは、笑いの導入により議論の場を過度に攻撃的な雰囲気にしないこと。
巧く機能した場合には、これは非常に効果的だ。ただ問題は「笑い」が必ずしもポジティヴな視点から発せられるとは限らないことで、下手をすると冷笑に走ってしまい、却って場を悪くする。
そもそも「笑い飛ばす」という姿勢自体が、多分に見下しの態度から生じるという側面がある*2ため、油断すれば容易に暗黒面へ落ちてしまう。「主張のおかしい部分を笑う」であって「人を嘲笑う」にならぬよう注意が必要である。


懐疑主義に笑いを導入した最初の例……かどうかは定かでないが、ごく初期的な例のひとつは明らかに「と学会」によるものだろう。ただ、ここでの笑いは基本的に悪意に基づくものではなく、ある主の愛に溢れたものであった。取り上げられたトンデモ本はいずれも「信じる人などまず存在しないだろう」荒唐無稽なものばかりで、取り上げる側にも「こんなインチキは許しておけん」のような憤りはない。むしろ楽しみのひとつとして徒に刺激せず、そっと遠くから観察するのが基本的な姿勢であったと理解している。
しかし近年の懐疑主義では、活動の目的は主に「社会に害為す類のニセ科学を駆逐する」ことにある。最初の動機が憤りにあり、必然的に攻撃的にならざるを得ない状態に笑いを持ち込むと、容易に侮蔑へと転化する。


理想的には、懐疑論に於ける笑いは「淡々と検証の不足、論理矛盾を指摘」した上で、和やかな雰囲気のためにちょっと添加するぐらいが望ましい。「笑う」ことは目的論たる懐疑主義の一手段に過ぎず、それを目的とすべきではないし、まして個人へ攻撃のための手段として使うことは厳重に戒めねばならない。

*1:いや、本来ならば検証の労力は新規性の主張者こそが負担すべき、というのもまた懐疑論の立場なのだが、現実問題として「敵」は懐疑論ならぬ身、その言い分自体が通用しない相手である

*2:悪い意味ではなく、批判というのは常に「相手が理解できていない点を指摘する」ものである以上、その部分では必ず「相手を下に見る」ことを避けられないものであることに留意