ネガティヴ分析

好き嫌い、とりわけ「嫌い」を語ることは荒れに直結し易い。そんなことは何度も経験して誰しも理解している筈である。しかしながら好悪を語るは絶えず、従って争いも絶えない。


好きという感情は無条件に受け入れ易い。それは恐らくポジティヴな感情だからだ。好きに理由は要らない。
しかし嫌いという感情は、どこかしら後ろめたさが付き纏う。ネガティヴな感情を抱いてしまった自分を肯定するためにも、何かしら合理的な理由をつけたがり、嫌ってしまう理由を分析しようと試みる。「これこれこういう訳で、自分はこれを嫌うのだ」
言った方はそれでひとまず気が済むわけだが、嫌いと言われたものを好きな方は堪ったものではない。「合理的な理由」があって嫌うと宣言された以上、それは言うなれば自分がそれを好くことが不合理であると、感情を否定された気分になる。だから反対する。「これを嫌うなんておかしい」と。
さて、「合理的な理由」を付けた気になっていた方も驚く。自分の説明が合理性を欠くのだとすれば大変である。肯定された筈の自分の感情が再び否定される、これは即ちアイデンティティの危機だ。……こうして争いはエスカレートしてゆく。


更に拙いことに、当初好悪論争から始まったものでも、しばしば議論の中で争点が「善悪」に掏り替わってしまうという現象が発生する。好悪は所詮感情の問題であり元々合理性などないし、個人個人の感じ方の問題だからある意味で割り切れる。それだけに理由としては弱い。だから、「相手を言い負かしたい」と思うあまり、理由をより強い要素に求めてしまうのだ。しかし「嫌い」なら見過ごせても「悪い」は見過ごせない。かくして炎は決定的に拡大する。


じゃあ最初から「好き」だけを語れば良いようなものだが、なかなかそう簡単に行かぬのが難しいところだ。「あんなものが好きなのか」と他から攻撃を受けることもある、相容れぬものが普及してしまって嫌いを語らぬことには状況を脱せぬこともある。
一番悧口なのは黙っていることなのだろう、多分。
沈黙は金。