ぶぶんしゃかいろん

先般のコミュニティ内トラブルに関してちょっと某所で相談してみた。
私は法律部分についてはまったくの素人なので、軽々に「社会常識的に考えてこうだろう」という判断をすると誤る可能性が高いと考え、法律を知る人に訊いてみることにしたわけだ、が。
そこで紹介されたのが「部分社会の法理」であった。
wikipedia - 部分社会論
まあ要するに「参加の自由がある場合には原則として内部規約が優先されるよ」ということだ。
これだけ見れば判らんでもない。が、同時に納得行かぬものをも感じてしまう。


いつぞやのはてな個人情報登録騒動の頃だったろうか、「嫌なら他行けば?」に対して「気軽に乗り換えられない事情は考慮されないのか」といった意見があった。数年書き溜めた記事を捨てて他へ移行するというのは、可能ではあるが代償が大きい。仮に記事がそっくり移行できるとしても、長期間に渡ってひとつのアカウント下で書き継いできたという事実そのものの価値や、寄せられたコメント、張られたリンクなどを引き継ぐことはできない。
程度の差こそあれ、それぞれに事情があって「敢えてそこに留まる」という選択が為されている筈だ。
それに対して「嫌なら他へ行けばいいだけなので文句言う権利はない」というのは正当なんだろうか。

部分社会として認知される団体は人的集合体であるから、その団体内で規律を保つために規定や手続を定める必要がある。そこで、その手続に一定の合理性がある限りその手続を承認して団体に入ったものはその適用を受ける

ここで言う「手続の合理性」というのはよく判らないが、「参加前に規約読んでね」的なもののことを言うのだろうか。その場合、部分社会にありがちな「参加後に規約が変更になる」事例で、規約の変更に民主性がなく、かつ「脱退できない事情」がある場合はどうなるんだろうか。


Webサーヴィスなどに限って言えば、大枠としての「部分社会」は常に誰かの私物である。全体としてはサーヴィス運営母体の所有物であり、内部にコミュなどがあればその発起人の私物であり、個々人の公開する「他人が書き込み可能なエリア」であれば公開している個人の私物としての部分社会がそれぞれに成立する。
が、私物である以上はそこでの一切は所有者の好きなようにできる……と言えるのだろうか。例えば自分の掲示板に書かれた内容を任意に編集あるいは削除することが物理的に可能であっても、それぞれの書き込みにはそれを為した人物の保有する権利というものがあるのではないか。その中で、管理者が迷惑と感じるものを消去/改変する権利を保有すると認むるに吝かではないが、全件に対しそれが有効なわけでもないのではないか。「迷惑と感じる」という漠然とした基準は多分に恣意的ではあるが、それが例えば「自分を賞賛する声以外の一切は迷惑なので改変する」といったものであれば、それは行き過ぎとされるのではないだろうか。まあ最初からそんな場所だと判ってさえいれば誰も近寄らないで済むわけだが、ある日突然に発効するものだとしたら、それ以前に書いてしまったものはどうなるのだろうか。
他人の家で壁に落書きして「著作権が存在する」と言っても認められまい。が、「他人の家で紙に絵を描いて遊んでいたが『紙もペンも俺のだ』と取り上げられた」時、それに対し書き手本人は権利を主張できないのだろうか。「その家に遊びに行くかどうかは任意だから駄目」?それは「遊びに行く前から判っているなら、そうなのかもね」ということにならないだろうか。


そもそも「部分社会内部の話は関知しないから話し合いで解決してね」だと民事の意味がないんじゃないかという気もするのだが。話し合いで解決するぐらいなら最初から法の世話にはならないわけで。


……まあしかしアレだ"軽々に「社会常識的に考えてこうだろう」という判断をすると誤る可能性が高いと考え"たからこそ相談しに行ったのだけれど、結果としては「法律って結構理不尽」という反応に落ち着いてしまう辺りは困ったものだ。
多分、色々理由があって現行の形に落ち着いているのだとは思うのだけれど、それが背景説明なしに「そういうものです」になってしまうと納得し難い。
ニセ科学に対する説明に反発されるのもその辺りに問題があるのかも知れない、とこれは自戒半分。