陰謀論と懐疑論の違い

陰謀論とは、世間一般で常識的に信じられている事柄が事実と異なり、実は何者かの陰謀によるものではないかと疑うこと。
懐疑論とは、世間一般で常識的に信じられている事柄が事実と異なるのではないかと疑ってみることで事実を検証すること。
似ているようだが全く違う。


懐疑論は、本来ならば懐疑を起点として論理的な検証を行なうことで客観性を保つ試みである。現在では必ずしもそういう意味で用いられてはいないようだが、あくまで「常識」という固定観念を取り払って事実のみを検証することにこそ、懐疑論の本懐がある。
そのため、時には常識を覆す結論に至ることもある。例えば松本サリン事件に於いて、当初の警察発表/報道を否定しオウム真理教の犯行可能性を指摘した件などは、奇しくも陰謀論的結論に至ったことで当初疑問視されていたが、その後事実と判明した。


対して陰謀論は直感を起点として後付けの理論的説明を求めるもので、多くは些末な点に拘り著しく全体の整合性を欠く。好例としては9.11テロの米国政府による陰謀説、アポロ計画の特撮説など。いずれも冷静に考えれば、国家規模でそのような陰謀を巡らせたところで得られる利益より危険性の方が遥かに大きいという単純な事実に気付きそうなものだが、陰謀論者は論理的思考の末に結論したのではなく初めに結論ありきの議論をしているに過ぎないので、自説との矛盾点はすべて無視される。
既にお気付きのことと思うが、こうした特徴はすべてニセ科学傾倒者にも当て嵌る。違うのは指向性のみで、やっていることはほとんど同じだ(「自分だけが気付いたこの衝撃の真実を皆に広めねば!」「この素晴らしい○○を知らない可哀想な人達にも教えてあげたい!」)。論理性よりインパクト重視なのも同じ。


いや、もし本当にその陰謀とやらが実行された証拠があるなら話は別だ。それはきちんと検証されねばならないから、是非ご提示を。
けれど陰謀論者の「証拠」とは精々が状況証拠で、それとて基本的に検証不能なものばかりだ(NASA陰謀説では「科学者は結託しているからデータはすべて信用できない」などと言うのだが、では一体何をもって信用できる証拠とするのか)。
真実でなかったとしても信じるのは自由だし、それを発表するのも自由だ(名誉毀損などの問題はさておいて)。けれど、常に証明責任は新たな説を提示する側にあり、それが不十分であれば説は却下される。ただそれだけのことであって、あなたの説を皆が信用しないのは決して陰謀などではないということはご理解頂きたい。