ローカルという概念がなくなれば

Webが第二のOS化しているとは良く言われる。メールの類はWebアプリケーションでほぼ問題なく利用できるし、テキスト編集もこうして行なえる。一部では画像編集さえこなせるものも登場しているし、ブラウザ側のプラグインに頼るとは言え音楽や動画再生にも対応している。Googleなどは表計算を行なうWebアプリケーションを開発中だ。
そうなると、Web上でできないことは何だろうか。


誤解を恐れずに言えば、ブラウザの機能ろWeb上への実装次第ではあるが、Webでできないことなど何一つない。強いて挙げれば物理的に周辺機器を必要とする行為ぐらいのものだろう。
ただ、Webでの操作でこれまでと決定的に異なる点が一つだけある。「ローカル」の概念だ。
現在のコンピューティングでは、端末に付属する記憶媒体(通常はハードディスク)に記録された「ローカルな」情報を中心に作業が行なわれている。けれども必ずしもデータがローカルに存在する必要はない。極端な話、OS以外のものは全てWeb上にのみ存在する形でも問題はないのだ。
あくまでイントラネット上のみの話ではあるが、シンクライアントとはまさにそうした構想で、データの保存はおろか使用するアプリケーションまで全てサーバ上に置いてあり、端末はまさにそれを操作する最低限の機能だけを有する「端末」に過ぎない*1
こうした環境での「ローカル」とは即ち、「他のユーザアカウントではアクセスできない領域」のことであって、物理的な位置とは無関係な表現となる。


それが一般化すると何が変わるだろうか。例えばファイルの送受信という概念が消滅するかも知れない。
現在ではローカルからローカルへデータをコピーして渡しているものが、Webシンクライアントでは「ファイルのアクセス権を変更する」だけの作業になる。データは常に同じ所にあり、ただユーザアカウントによって見えたり見えなかったりするだけだ。
送信の目的はコピーを生成することではなく相手に利用可能な状態にすること。とすれば、これは非常に合理的なシステムに思える。
派生データ作成の為に複製したり、データの焼失に備えバックアップする場合を除き、複製はもはや存在しない。所有とは即ち、アクセス権を手に入れることだ。


流石に単一のファイルを全員が共有するシステムは、性善説的立場で考えても無理が生じる。共有者が多ければ多いほど、個人の意図しない改変を受ける可能性が高まってしまうだろう。まあ、そもそも改変されて困るようなものを多人数で共有するとは考え難いけれども。
そのために必要なのは自動的なヴァージョン管理システムだ。改変を受けるたびに改変したユーザと差分を記録、各ユーザは改変の内容に関わらず望むヴァージョンのデータへ遡って利用できる。著作権の概念は元リソースの生成記録と改変記録によってのみ意味を持つ。


……それ何てXanadu?

*1:シンクライアントの利点はどの端末でもログインにより個人の環境を呼び出して利用できることと、アプリケーションなどの管理が一極化できること。作業に場所を選ばず、また全端末へのインストール作業も必要ない