映画「君の名は。」に於ける天文学上の描写におかしな点がある、との批判に批判が出ている。
togetter.com
その中で私が気になったのが、これだ。
くろ @kuroseventeen
すげーわかる。「神は沈黙せず」は大好きな小説だけど、あの経済学への知見のなさでげんなりしたことを思い出す。1200年に一度、同じ場所に災害をもたらすっていうおとぎばなしと一緒のレベルにならないくらい萎えたよ。
katumaru2 @katumaru8000
「神沈」は、経済学・法学的知見のなさとか政府権力の異様な甘さとか、現代社会常識の欠如が顕著に出てて、それがストーリー進行の根幹に関わってるから、傍目には破たんしてるとしか言いようがないという…。「物語の重要な要素なのに、基本的な考証もやってないってどうなんだろう」ね、ホントに。人に言うのは簡単だよな。プロの作家ってのは、自戒とかしないのかしらん。
ここで批判されているのは元の批判発言を行なった山本弘氏の著作で、
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私はそのあたり気にならずに読んだのだが、なにぶん経済学などについては大変に疎く、「君の名は。」で喩えれば彗星軌道問題を見せられても何がおかしいのか説明されなければわからないぐらいのレベルであるので、指摘されている部分については判断できない。従ってここではひとまず指摘通り、「山本弘には経済学への知見がない」という前提を受け入れておく。
その上で、「自身の著作に誤りがあることの指摘は他人の作品について誤りを指摘することへの批判になるか」を考えたい。
「神は沈黙せず」について
まず最初に指摘しておくならば、「神は沈黙せず」の根幹は(作品紹介文にもある通り)世界シミュレーション仮説、「この世界はすべて作り物ではないか」である。この仮説は原理的には証明しようがない──仮にすべてが仮想なのだとして、自分自身がその仮想の一部である以上は仮想の外を伺う方法はなく、従って「わからない」以上の結論は出ない。まあ科学的な見地から言えば「明らかに真理と認められていないものは考慮しない(明瞭判明の規則)」「そう仮定する方がややこしい話になる場合は無視しておく(オッカムの剃刀)」というわけでスルーして良い話、なのだが……それはあくまで「瑕疵なく完全である場合」に限られる。
もし、この世界がシミュレーションなのだとして。
その計算結果に綻びがあったら、どうなるか?
シミュレーション仮説は、シミュレートが完璧であるからこそ「判断が付かない」。が、本来あり得ない結果が発見されたなら、その綻びがいつか事実を暴くのではないか。
「神は沈黙せず」のアイディアの根幹はそこにある。我々の世界で本来あり得ないはずの現象が確認されたら、それはシミュレーション仮説の証拠たり得るのではないか。つまり、「超常現象とされるものは実際にはシミュレーションの綻び、あるいは実行結果に対する干渉の結果なのではないか」。
……という作品なので、これの根幹は明らかにシミュレーション仮説と(その証拠とされる)超常現象にあって、経済ではない。社会の描写が甘いとしても、それは少なくとも根幹には関わっていないはずだ。
とはいえ「我々の知る世界が、我々の知らない(作品世界内だけの)新事実によって変容する」描写に於いて社会知識が不足しているのであれば、確かに読んで気になるところではあろう。
内容批判へのカウンターとしての能力批判について
山本氏による大元の批判は「物語の根幹には関わらないがテーマ上見過せない瑕疵」という趣旨だったのに対し、山本氏への批判も「根幹ではないが見過ごせない部分に瑕疵がある」という内容に落ち着いた、というのは上に述べた通りである。
次は「批判に対し『お前も同じようなことやってるだろ』という返しは適切か」について考えてみよう。
一見すればこれは「お前の作品にはこういう瑕疵がある」vs「お前の作品にだって同じような瑕疵があるだろ」で、同じ論法であるように見える。しかしよく見てみれば、前者では作者を批判しているのではなく作品(の一部)の批判をしているのに対し、後者はその発言への批判ではなく発言者の作品を持ち出してくることによって、発言者個人を批判しているのだ。作品批判と作者批判は完全に別のレイヤーである。
基本的に作品というのは単体完結だ。批評の過程で関連する過去作品へ言及する場合はあるとしても、作品の評価それ自体に過去作の評価が影響してくるわけではない。以前が傑作だからといって新作が自動的に傑作扱いにはならないし、今までが駄作でも今作がそうであるとも限らない。
対して作者批判は今までの作品傾向全体を総括することになるし、場合によっては作品以外の言動、ときには私生活までもが範囲に入ってくる。その善し悪しはさておき、これを作品批判へのカウンターとして行なうというのはつまり、過去の言動を持ち出して「お前にはこの作品を批判する資格はない」という文脈になる。
これは正当な言い分かどうか。
たしかに、過去の発言から発言者の質を問う、というのはしばしば行なわれることだ。ただしこれは「発言を俯瞰して信頼性を値踏みすることによって、個別に価値を判断しかねる発言についても大体の重み付けを行なえる」(この事例で言えば「山本弘の言葉は、経済学については信用しない方がいい」などの)点に意義があるのであって、「ある分野で間違ったら他のあらゆる分野でも二度と信用されない」という意味ではない。
元より人は全分野の専門家にはなれないし、かといって専門分野以外に沈黙を守って生きられるわけでもないので、判断を間違うことも多い。もしそういった間違いもすべて「発言する資格」への減点対象になってしまうのであるとしたら、そもそも発言資格のある人間などこの世界には一人もいないのではなかろうか。
これがせめて「作中の経済描写について批判しているが、その本人も経済については全然理解できていない」という話であればカウンターとして適切であったと言えるのだが、今回は天文学分野の話であるからには同じ天文学、あるいはせめて物理学あたりについて指摘すべきであったし、また仮に山本氏が実際には天文学に疎かったのだとしても、「描写に誤りがある」という氏の指摘自体が的外れであるわけではないので、そのような切り口では大元の批判を揺るがすことはできない。
つまり、ミスの指摘という批判に対する正当なカウンターは「実際には誤ったものでないことを明らかにする」か「誤った描写はミスではなく意図的な演出であることを明らかにする」のいずれかであるべきで、そこに批判者の資質は一切関係がなく、カウンター側の意図がどうあれ的外れな個人攻撃に過ぎない。