本好きの、本好きによる、本好きのための「本好きの下剋上」

「本好きの下剋上」を、公開分まで読み切った。あまりに面白かったので書籍版もKindleで揃えて、また最初から読み直している。一作品をじっくり読むより次々に濫読する方を好む私としては小説をこのように読了後すぐに読み返すことはほとんどないので、気に入りようがお解り頂けるだろうか。

活字中毒者の幼女

最初のうち、主人公はちっとも魅力的でない。本がないことに絶望しているから世界に馴染もうとせず、どうにかして本を作り出そうとする余り空回りしては周囲を困らせるばかりで、家族や近隣の人たちだけでなく読者から見ても身勝手だ。
それが転機を迎えるのは書籍版だと1巻の終わり頃、幼馴染の男の子が商人見習いになるのを助けるくだりである。その子に協力する時点で既に当初よりは関わりを得ているのだが、ここで初めて自分の持つ異世界の技術知識に高い価値があることを自覚し、本のために積極的に動くことを決意する。同時にそれはこの世界に腰を据え、きちんと周囲に関わってゆくこうとすることでもある。いつしか「見知らぬ他人」ではなく身内といえる関係が築かれ、当初の身勝手だった印象は影を潜める。

しかし本──のための製紙と印刷の技術──は「高い価値」というレベルの話ではない。それまで1頭の羊から1ヶ月かけて2枚程度しか得られず、すべてのページを手書きで作り上げていた貴重品を一気に量産し、庶民にも手の届く嗜好品として普及させようと望むならば、産業構造をひっくり返し社会基盤から変革する必要がある。それは一平民が手掛ける範囲を大きく逸脱している。必然的に主人公は貴族社会に近付き、否応なく取り込まれることになる。それはまた、身分の壁によって親しい者と距離を取らされることをも意味する。

この「主人公が社会を受け入れ、社会が主人公を受け入れる」「異なる社会に足を踏み入れ、同時に以前の繋がりを少しづつ失う」という流れは、その後も繰り返し描写されることになる。
普段は本まっしぐらな主人公が巻き起こすドタバタが笑いを誘う分だけ、不意に訪れる別れのしんみりした描写とのギャップは胸を締め付けるものがある。

魔術社会

魔術が実在するならば、それが社会構造に影響しないはずがない。「本好き」世界では契約に強制力を持たせる魔術や登録された住民とそれ以外を識別する魔術など、社会基盤に魔術が組み込まれている。
また「魔力を有し魔術を行使できるのは(基本的に)貴族だけ」という形で身分差のある支配構造に意義が生じ、同時に「高速な移動/情報伝達技術がありながら中世程度の社会レベルに止まる理由」も明らかになっている:高速伝達のできない平民間では技術が拡散しにくく、また貴族の技術は魔力のない平民には応用できないため、「平民が技術を発明し社会に変革をもたらす」ことがほとんどないのだ。
このように社会構造に魔術が深く関わっているという設定が、平民の主人公が貴族社会で潰されぬ立場を得ることにも繋がり、また政治的混乱による世界への影響にも繋がっている。物語上の要請と設定上の帰結が相互に作用して、複雑で魅力的な描写を生み出していると言える。
魔術の礎を為すのは神話に準じた祈祷であり、そのため貴族の挨拶や会話には高頻度で神話由来の言い回しが登場する。たとえば「フリュートレーネとルングシュメールの癒やしは違う」というのは同じ癒しの魔術でも水の女神であり不浄を清めるフリュートレーネの力と、その眷属で傷を治すルングシュメールの力は異なる=「それはそれ、これはこれ」の意味で用いられるし、「時の女神 ドレッファングーアの紡ぐ糸が重なった」ならば再会を、「時の女神 ドレッファングーアの紡ぐ糸が重なることはない」ならば決別を、「時の女神 ドレッファングーアの紡ぐ糸が重なることがあれば」なら婉曲的な断りを示すなど、背景設定として詳細な神話があり、それが生活に浸透していることを伺わせる描写となっているのも面白い。

本好きのためのメタ構造

元々、異世界転生というテンプレートには「読者と同じ現代日本人視点で描写できるため、現地住民視点よりも共感しやすい表現が可能」という利点があるが、「本好き」の場合は更に読者の属性を絞り込んで一段深まったメタ構造を獲得しているように思われる。
寝食を忘れて読書に没頭する主人公の話を読む側が思わず徹夜してしまい、主人公が本好きを増やすために仕掛けた「続刊待ちの罠」を読む側が続きを待ち焦がれる。活字中毒者メタ視点である。

作者の執筆速度は割合早い方で、ほとんど日刊ペースで連載されている。Web上では現在のところ第5部が連載中で、書籍版では1部あたり3冊構成だから相当な分量だ。1部終わるごとに主人公の社会的立場が一段上がる感じになっているので、恐らくは7部ぐらいまでは続くんじゃないだろうか。
なお書籍版では文章がリライトされて一部のストーリーが整理されたり誤字や多少引っ掛かる言い回しなどが修正されているほか、主人公以外の視点で語られる閑話部分が自己紹介から始まる一人称視点ではなく三人称視点での描写に書き変わっていたり、本編には含まれない書き下ろしサイドストーリーが追加されていたりするので、是非そちらでも読み直されたい。
また「なろう」にも設定系のまとめページがあるが、他に有志によるWikiも作られ情報が纏まっているので、不明点などはその辺りも参照しながら読み進めるといいかも知れない。ただしネタバレ注意。
www8.atwiki.jp