Steins;Gate:ゲームと没入感

面白いゲーム、の条件を定義するのはなかなか難しい。ひとくちにゲームといっても内容は様々で、別々の魅力があるからだ。
ただ、割と多くのゲームに共通する要素のひとつが「没入感」ではないかと思う。


没入感。つまり「ゲームに入り込んで現実との境界が曖昧になる」感じだ。画面によって隔てられるゲームで「現実との境界がわからなくなる」ようなことは勿論ないのだが、リアルな作り込みによって「境界を薄くする」ことはできる。
没入感が強いということはゲームに集中して現世に引き戻され難いということだ。


没入感の強いゲームに共通するのは「描写の密度」だ。グラフィックで言えば実写さながらに精緻に書き込まれた画面描画。文章で言えば描かれる状況のリアリティということになるか。
リアルを感じさせるにも方法は色々あるが、現実世界になるべく近いものを描いて見せるのは効果的である。シュタインズ・ゲートで言えば、秋葉原の街をほぼ忠実に描いていたり現実世界の出来事を絡める演出などがそれに当たる。


シュタゲでは、このリアリティ演出を多層的に行なっている。単に現実レイヤーの断片をゲームにちりばめるだけではなく、現実をベースとした虚構を混ぜ、また「ゲーム内での」現実と虚構をも織り交ぜる。更にストーリーの進行に伴い「ゲーム内の現実」そのものが変化することで、次第にどれが現実でどが虚構なのか、その境が曖昧になってくる。自分の知っている世界のことと、それに良く似ているが別のゲーム内世界のことが溶けて混ざり合い、言うなれば主人公が経験した世界線の改変感覚──リーディング・シュタイナー発動に伴う「自分の記憶と現実が食い違う」ようなそれ──をプレイヤーもまた追体験するのだ。
狙ってのことかどうか知らないが、この「プレイヤーの追体験」がゲーム全体を通じて機能する構成になっている。時間をループする主人公の行動はそのまま、ゲームのタイムラインを何度もやり直しエンディングを探すプレイヤーの姿に重なる。ゲーム内でメタ視点を獲得した主人公をメタに見つめるプレイヤーの視点。
また、並のAVGならば「主人公の行動を選択する」行為が嫌が応にもゲームとしての冷めた視点を提示してしまうのだが、シュタゲは(恐らく意図的に)それを排除した独特のシステムを採った。処理的には従来のそれと大差ないが、携帯メールという形式を取ることで可能な限りゲーム感覚を意識させないつくり。しかも、敢えて分岐選択による影響をすぐには見せないことで「物語を操作する」感覚を徹底的に隠している。この辺を見るに、メタ的な構造を重ねる点も含めて制作者の狙いなのではないかと思う。
こうして、ふと気が付けばあれほど痛々しい厨二病全開で取っ付き難い「アクの強過ぎる」主人公がいつの間にか自分の視点と重なっている。変に個性を排除した自己同一視用主人公キャラなどより余程強烈な同一化。


色々なところに魅力のあるゲームだけれど、最大のポイントはこの構造そのものにあるのではないかと思った次第。