TRPG世代論以前の世代論

最初にお断り。以下、暴論。
ハンドアウト論議以来、いやそれはきっかけに過ぎないから実質的に1996年の「熱血専用!」以来だろうか、ずっと引っかかっていたこと。
要するに演技系ゲームに感じてきた気持ち悪さは、ときメモ以降増殖した「萌え」系ゲームに感じるそれと同質なのだ。

今やゲームの中心はゲームシステム自体ではなくキャラクターです
ユーザーが求めているのはいかに効率良くキャラを消費できるかということ-----それが「萌え」の構造です

ゲームシステム自体はあくまでキャラへの感情移入を補助するためのツール-----というのが我々の考え方です

うめ著「大東京トイボックス」2巻に於ける、同人出身のゲーム制作会社"電算花組"社長の弁である。ゲームの面白さをゲーム性に求めない、それは私から見れば既にゲームではない。


このセリフ自体は架空のものだが、状況は決して架空ではない。無論すべてがそうなってしまったわけではないが、確実に浸透し増殖したのも確かだ。ゲームに限らず、小説や漫画などを含めあらゆるエンタテインメントに広まった傾向である。
従来ならば主となるもの-----ゲーム性であったり物語であったり-----の従属物であり道具であり手段であった筈のキャラクターを主体に据えることで、主体だったものの方を従属させる。
そういう楽しみがあってもいい。そこに脚光を浴びせて見せる作品が存在してもいい。しかしそれが主流になるべきではない。それはジャンルそのものの目的と手段を逆転させる、恐るべき破壊者である。
だが、既に現実のものとなってしまった。


TRPGに於いては、このムーヴメントは些か奇妙な形で訪れた。
萌えは対象物への"愛"であるから、本来は二人称視点または三人称視点でしか生じ得ない。しかしTRPGに萌えをストレートに持ち込むならば、その対象は自分自身(の演じるキャラ)とならざるを得ないことになる。それは……率直に言って不可能だ。
従って、TRPGではむしろ萌えよりも燃えが中心となった。これは萌えよりも幾分従来の主体に近い立場にあり、それ故に萌えほどの破壊力を持ち得なかったものだ。キャラそのものというよりも演出に主体を置くスタンスであり、それ自身が主体を乗っ取る点で萌えに類似しているが、立場上従来の主体と不可分であるために主客が完全に転倒するには至らない。


TRPGに於いて世代論とはシステムの特徴から段階的に区別した呼び名のことであるが、どうもそれ以前に、こうしたムーヴメントを許容できるかどうかという、「プレイヤーの世代論」の方が重要なんじゃないかという気がしてきた。システム世代の変遷は結局、プレイヤー層の世代交代によるものではないかと。
この点に於いて決定的に旧世代に属する私は、どうもやはり活動規模を縮小せざるを得ない宿命らしい。