火星から月へ:アンディ・ウィアーを読み比べる

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

オンライン自主掲載から映画化にまで至った超新星のようなデビュー作「火星の人」の作者アンディ・ウィアーの新作「アルテミス」を読み終えた。今度は月面都市の話だ。

最初に評価を伝えておこう:B+、悪くはないが期待を下回る──前作があまりに最高だったので。

正直なところ、前半(今回は最初から上下巻に分かれての刊行なので、上巻ほぼ丸々)は些か退屈だった。主人公の女性がどういう人物でここがどういう場所なのか、それを描くことに序盤は費される。もちろんそれは必要なことなのだけれど、空気がなく重力が弱い月面で生活するためのドームという環境と、地球各国からの干渉が少なく法的拘束の緩い自治都市という社会、敬虔なムスリムである熟練の溶接工を父に持つ奔放な運び屋/密輸業者の娘という異世界を説明するために本題に入るまでに結構な分量が費されてしまう。このあたり、いきなり嵐に遭遇し火星に取り残されるというホットスタートから始まる前作とは対照的だ。
状況が動き始めてからの面白さは充分で、下巻は一気に読み切った。しかし上巻がなかなか進まないので全体評価はどうしても低めになる。

読みにくいのはなにも序盤の展開が遅いからだけではない。「アルテミス」は全体が主人公の一人称視点で書かれているのだが、地の文が頻繁に「読者に向かって語りかけて」きて、その部分と他の部分とで口調が変わるのだ。基本的にはだ・である調なのに、ところどころにです・ます調が混ざってくる。たとえば──

ではどうやって時間をきめているのか?ケニア時間を採用しています。ナイロビで午後だから、アルテミスも午後。

翌朝、目が覚めると、豪華で寝心地のいいベッドのなかだった。
いえいえ、誰ともいっしょじゃありません。エロいことは考えないように。

こういうのが所々に挟まってくる。その上、主人公はわりと口が悪いのだが、その多分スラングな表現についても、どうもピンと来ない。
これらが原文の表現自体の問題なのかそれとも翻訳の問題なのか、私には判別のしようもないのだが、しかし前作でそのような読みにくさを感じた憶えはなかったので、もしかして訳者が変わったのかと思わず調べてしまったぐらいだ。

「火星の人」も主人公の一人称視点だったが、マーク・ワトニーは科学者なので地の文も理知的で読みやすく、文体も安定していた。「アルテミス」では、どうも作者が想定する「頭はいいけど育ちが悪い女の子」のイメージと訳者のそれがうまく噛み合っていないような印象を受ける。どちらが主因なのかはわからないが、それが作品の魅力を若干削いでしまっているように感じられる。

とはいえきちんと考察された物理・化学・工学的描写や、工夫で困難を乗り越えてみせるくだりは流石のアンディ・ウィアー、ついでに「専門外の見落としによるインシデント」までもが健在だ。「完璧な人など居らず完璧な計画などない」のが作者の哲学なのかも知れない。

前半を退屈に感じたなら、「それでも読む価値は充分にある」と申し上げたい。ただ、「初めて読むならまず『火星の人』を」とも。

火星の人

火星の人