ホラーのメタ構造

ホラーというジャンルはなかなか特殊で、感情移入ではなく恐怖の敷衍という形で読者に浸透する。
身の毛も夜立つ怪物の描写に恐怖するのではない。登場人物の悲惨な運命に同調するのでもない。その世界を受け入れるならば、自らの身にもまた恐怖は忍び寄るのだということに思い至って戦慄するのだ。


ホラーに於ける最大の恐怖とは、「未知」である。なんだか判らないから怖い。判ってしまった瞬間、それは恐しげな何かではあっても恐怖の対象ではなくなる。
あるいは、こう言い換えてもいい:それは「対処方法がわからないからこそ怖いのだ」と。
例えば──


SIRENというホラーゲームがある。日本の閉鎖的な田舎村を舞台としたゾンビもので、その恐怖感には定評がある。

SIREN PlayStation 2 the Best

SIREN PlayStation 2 the Best

ゾンビ物の中でもこれがとりわけ恐怖されるのは、恐らく「敵」が殺せもせず、逃げられもしないものだからだ。とりわけ序盤、敵の目を盗んで気付かれぬように逃げようとする場面の緊迫感は物凄い。
……が、これが実は途中で武器を入手してしまうと、途端に怖くなくなってしまう。所詮はゾンビ、動きも遅いのでどうにでも「倒し」ようがある。倒しても倒してもまた復活してしまうので登場人物的には絶望的であることに変わりはないのだが、プレイヤーからしてみれば既にそれは単なる「対処可能な敵」なのだ。


あるいは、やはり日本の閉鎖的な田舎を舞台とした吸血鬼小説「屍鬼」。

屍鬼(一) (新潮文庫)

屍鬼(一) (新潮文庫)

その逃げ場のない状況、誰が敵かわからない状況、顔見知りだった人物が敵となって迫る状況は本当に怖い。だが中盤以降、その正体がはっきりしてくると、途端に怖さは薄れ、「怪物退治」的なものに堕してしまう。


かつてH.P.ラヴクラフトは名著「インスマスを覆う影」で片田舎の閉鎖的な漁港を舞台に生理的嫌悪を催す奇怪な魚人間の存在を描いて見せた。しかしこの作品最大に恐怖は、すべてが終わって自宅に逃げ帰った主人公が自身にインスマスとの血縁があることを知り、また鏡の中の姿にインスマス人の特徴の表出を認めるという終端にある。つまり恐怖の対象から自らが逃れられないことを示すものであり、読者はその事実にこそ自分の身を重ねて恐怖する。


かようにメタな構造を持つホラーをゲームに応用するのはたいへんに難しい。いや、コンピュータゲームではヴィジュアルという強力な武器があり、リアルタイムで迫り来る恐怖というものを描いて見せることができる分だけむしろ向いているとすら言える部分があるのだが、これがボードゲームやテーブルトークになってくると本当に困難を極める。
元々メタ視点のゲームであるだけに、メタ視点構造の題材を持ち込んでしまうとメタ=メタになってプレイヤーの視点が更に遠避かったり、ふたつのメタ視点が衝突したりと、いずれにせよホラー世界への没入を弱めてしまうことになる。
あるいはもうひとつ、マルチプレイヤーという特性上、視点が定まり難かったり冷静な視線が入り込んだりして恐怖への没入をかき消してしまうという側面もあるかも知れない。
いずれにせよ、そうしたゲームでホラーを演出しようと思えばかなり入念に「雰囲気」を作らざるを得ない。例えば夜中に明かりを落とした部屋でプレイするとか……しかしまたここでも、映像作品と異なり「手元が見えないとゲームにならない」という難点が発生するのだが。