「苦痛は報われるべき」という概念

物事の因果は「何をしたか」と「結果どうなったか」で成り立つのであって「どれだけ苦しんだか」が入り込む余地はない。しかし実際には、人間は苦しんだことに対する代価を求めがちであり、他者に対しても往々にして苦しみの量を評価してしまう。
仕事に於いて結果ではなくその過程としての努力が重視されたり、宗教上重要な行動として苦行が存在したりするのもすべてその類例と言える。


苦しんだ者が、希望として「これはいつか報われるはず」と思うのは逃避行動として重要である。ストレスから逃れられなければそのうち精神的に破綻してしまうわけで、個の生存として理に適っている。
その意味では、他者の苦痛を評価することは社会構造として必要なのかも知れない。そうでなければ、実際には報われないからだ。
ただ、これは人間関係として処理可能な部分に於いてのみ機能するもので、自然現象相手には効果がない……のだが、その辺りを巧く切り分けるのは困難なため、人は無駄な苦痛を受容して対人以外についても代価を期待してしまう。
質が悪いことに、ここでも脳構造上の選択的フィルタが機能してしまうために、要求と現象が偶々一致してしまった事例を「願いが叶えられた」と誤認し、そうでない場合には「修行が足りなかった」と、より一層の苦痛を模索することになる。行き着くところまで行くと、そのために我が子を生贄に捧げたりしかねない。
また、対人に於いても「努力したのだから認められるべきだ」が行き過ぎると、認められなかったことに対し理不尽な怒りを感じるなどの弊害が生じる。例えば「これだけ愛を送っているのだから相思相愛になって然るべき→ストーカー」など。


資本主義は独占という本能に基づく強いシステムだが、この方式に於ける成果の最大化には合理性が必須とされる。この中には当然、努力報酬ではなく成果報酬への変革も含まれるのだが、これはもう1つの本能に反してしまう。
どうしたら両者を恙なく統合できるだろうか。
恐らくそれには、資本主義が単純に金だけを利益としない構造を持つこと、努力報酬が苦しみにではなく楽しみに支払われるようにすること、の2点が必要なのではないかと思える。