インターネット共産主義

インターネットは性善説の上に成り立っている。


インターネットの情報伝達は、サーバからサーバへ情報をリレーすることで成立している。情報を要求した箇所とその情報を保持している箇所を直結するわけではなく、その間にある幾つもの中継点を通ってやりとりしているわけだが、この中継点はあくまでそれぞれの組織が自分のために用意したものだ。つまり相互に他人のリソースを間借りすることで成立しているシステムであり、相互扶助なくして成立し得ないものと言える。
このことがインターネット上の文化に影響しているのかどうかは判らない。実際のところ、むしろ発祥である大学間ネットワークの気風が大きく影響しているのではないかとも思うが、何にせよ、現在のインターネットは相互扶助の気風を持っている。
インターネットでしばしば求められる関係性は、「個人対個人」ではなく「個人対コミュニティ全体」としての関係であり、即物的なGive&Takeではない。無償の献身に無償の献身で応える関係性、それは常に「コミュニティ全体への貢献」という形で現れる。
インターネットではまた、情報は秘匿するものではなく開示し無償提供するものと捉えられている。セキュリティやプライヴァシの関係で開示するわけに行かない部分は存在するにせよ、そうでない部分を利益のために秘匿するのは好ましくない。むしろ積極的にそれらを提供し、また他人が提供するものを無償で利用する。独占による利益を善しとせず互助により発展する社会構造は、正に共産主義のそれだ。
資本主義の旗手たるアメリカから共産主義の体現たる社会が現れるというのも皮肉な話だが、実際のところインターネットが「インター」ネットたり得たのは、偏に利益を必要としない「大学」という社会基盤を礎とするが故だろう。日本に於いても大学はしばしば左翼派の拠点となったが、それだけ大学という社会が利益を至上としない稀有なコミュニティだということだ。


インターネットの外の世界を構成する資本主義は、基本的に性悪説的な思想で成り立っている。
資本主義の基本は、社会構成員を信用しないことだ。自発的な貢献など有り得ない、だから対価を払う。
対価を払って「買い上げた」以上、それは占有物である。他人に与える義理はない。
資本主義では、あらゆる関係は常に1対1でのみ成立し、それは必ず等価交換である。その意味に於いて個人は個として独立しており、帰属性は薄い。特定の相手への貢献は、常に等価な何かを引き出すために行なわれる。
このシステムは解り易いために能く広まったが、印刷に始まる複製技術により綻びを生じた。情報が物体と分かち難く結びついているうちは排他的権利が侵されることはなかったのだが、容易に複製できるようになると話が違ってくる。そこで「著作権」という概念を導入して凌いだが、これは近年の技術進化により複製の敷居が劇的に下がったこと、とりわけデジタル化により物体と決定的に分離したことでやはり破綻した。オリジナルと複製物の間に全く差が生じず、また利用者が特定できない以上、等価交換原則は崩れ去る。


インターネットの構成要素は資本主義により成立しているものが多い。例えばISPがそうだし、そこで使われる機材も回線も、末端のユーザが使うPCだってすべてそうだ*1。だから、ある程度資本主義的なものがインターネットに入ってくるのは止むを得ない。
けれども、本来それはインターネット世界から見れば異物なのだ。
(ネット社会から見た)理想的には、Web上は共産主義、その外は資本主義と、二つのシステムが済み分けるのが宜しい。しかし実際問題としてインターネット上には外で作られた資本主義ベースのデータ-----例えば音楽であったり映像であったり文章であったり-----が持ち込めてしまうし持ち込まれてしまった。データだけではなく、その上で売買を行なう仕組みまでが持ち込まれた現在となっては、最早二つを綺麗に分離することはできない。そして資本主義勢力は、コピーを防止する技術を以て共産主義的インターネット社会を切り崩しにかかった。
それは理に適った行動なのだろうか。企業の利益にはなるかも知れない。けれども末端ユーザの利益になっているわけではない。むしろ、段々不自由になるばかりだ。


これまでが異常だったのだと言われれば返す言葉もないが、実のところ著作権という概念が導入される前に戻っただけの話なのだ。文章にしろ音楽にしろ絵画や立体造型にしろ、著作権の成立前から存在するし、その作者達がオリジナルとしての権利を主張することもなかったに違いない。むしろその内容が広められることは創作者としての栄誉に他なるまい。
逆に、真似されて忘れられるようなオリジナルに大した価値はないのだ。それを巧くアレンジしてより価値を高めた別の作り手が称えられこそすれ、下手な模倣者とて情報の伝達者ではあって盗人と蔑まれる理由はない。
今日の著作物とて本来は同じことだ。無論、コピーの容易な現代に於いては伝達者ですらない一方的な利用者も多くいることだろう。けれど100人の只乗りユーザの中から1人の新たな創作者が発生すれば、それで充分な意味がある。
問題はそれが、外の社会と乖離してしまうことだ。古代社会ならば情報の生み手はそのことだけでコミュニティ内に於いて重宝され養われるべき価値を見出されたであろうが、現代に於いては等価交換できない情報で生活することはできなくなってしまった。而して再び等価交換の概念から分離された創作者は、今一度共産的な社会構造によって贖われるべきだ。
そして、そのためのリソースを提供する役割は、インターネットにまで資本主義を持ち込もうとする側にこそ相応しい。内部に発生した情報の外界での利用権と引き替えに、ネット全体に提供される外界でのリソース。そしてネット共産社会への貢献=情報の利用量と評価に応じて、それが再配分されるようなシステム。
古典共産主義のように万人に平等な配分が行なわれる必要はない。ただ中央集権的な構造を取らないこと、配分比はあくまで民意によってのみ決定されること。そうした共産主義と資本主義のハイブリッドな経済システムが、Web上でならば可能なのではないかと妄想する。

補足と要約

  • 私は基本的に共産主義者なので
    • 上記の視点は偏っています
      • 本気ですが実現するとは努々思ってません

*1:共産主義からこれらが成立し得なかったかどうかはまた別の話として