酒蔵と女人禁制

「酒蔵が女人禁制であったのは差別ではないか」とする問いに、「女性は糠床を触るため酒蔵の菌に影響が出るから」と杜氏が答えた、という話がまことしやかに広まっている。
togetter.com
伝聞につき元発言者である杜氏の意図するところが差別性の否定であったかどうかは不明だが、少なくともTwitterの発言者は「女人禁制は差別にはあたらない」という意図でこれを書いたものと思われ、またTogetterまとめ主は明確にそれを意図している。
しかし、「差別にあたらない」とする理由としては些か納得しかねたので、ひとつ書いてみたい。

酒と発酵食品の関係性

発酵食品、たとえば酒やチーズ、漬物、ヨーグルトなどはいずれも微生物が重要な役割を担っており、製造所ごとの微妙な味わいの差もそうした常在の細菌叢の違いによって生じている。ここに「強い」細菌が持ち込まれると、それによって本来あるべき細菌が駆逐され発酵が失敗、場合によっては倉ごと終わりを迎えかねない事情があり、注意を払わねばならぬのは確かであろう。とりわけ納豆菌などは重大な禁忌のひとつだ。
しかしそれが「女人禁制」を正当化するか、という話になると少々込み入ってくる。

仮に「女性は糠床を触るため酒蔵の常在細菌叢に影響が出る」のだとして、じゃあ何故「女性だけが」糠床を触るのか、といえば「家事の一切は女の仕事」という認識のせいであろう。「男は家の外で働き金を稼ぎ、女は家の中で働き男の稼ぎによって『食わせてもらっている』」という認識の差別性は今更説くまでもあるまい。
「ゆえに女は酒蔵への立ち入りを禁ずる」のは、それ自体は直接的には差別的意図でなかったとしても、差別構造によってその必要性が維持されてきたのだとすれば、やはり差別のひとつではあろう。
まあ、(これが理由だとすれば)あくまで「日本社会全体の男女差別性」であって「酒造業の差別性」ではないので、もちろん「杜氏に女性を差別する意図があった」ということにはならない。

微生物による発酵という現象が解明されたのはごく近代の話であり、それまでの発酵は「こうやると何故かそうなる」という純然たる経験則の賜物である。チーズの青カビ/白カビや日本の醤油・味噌・酒などに共通するコウジカビあたりは目に見えるので認識があったにしても、糠漬の乳酸菌や納豆の枯草菌などを認識していたわけではない。したがって糠床の乳酸菌云々は、経験の蓄積があったとしてもせいぜい「なぜか女が蔵に入ると失敗する」ぐらいのところであり、明確に「女は糠床を触るから」と認識されていたわけではない。
そもそも現代のように多くのデータを集め因果関係を明らかにするような「科学的思考」など成立していない時代の話であるから、実際に「女性が立ち入ると失敗するから」であったかどうかさえ怪しく、糠漬と酒造(の失敗)にある程度の関係性があったとしても、「女人禁制であった理由」がそれであるとも限らない。
「女だけが糠床を触る」のが現代の視点では女性差別であろうとも当時の認識では当然のことであったのと同じように、現代から見た後付けの「合理性」が、実際に合理的理由から成立していたかどうかは怪しい。

だいたい、日本酒の醸造でも糠漬と同じく乳酸菌が主要な役割を果たすのだ。ならば酒蔵と糠床を行き来する女性の「持ち込む」乳酸菌は基本的に酒蔵のそれと同じ種であろうと考えられ、それが原因での失敗というのは可能性が低いのではないだろうか。もちろん、醸造の段階に応じて支配的な細菌種が変化するので「今このタイミングで乳酸菌はまずい」ということも考えられないわけではなく、それが理由だとする説を完全に否定するものではないが。

ところで日本の発酵食品といえば酒以外には味噌・醤油、納豆、漬物などが想起される。このうち「他の細菌よりも強い」納豆、「家庭で女性が扱う」漬物はさておき、味噌および醤油蔵に於いても女人禁制の決まりがあるのだろうか。
たとえばGoogleで酒蔵あるいは酒造かつ女人禁制で検索すると6万件強のヒットがあるのに対し、味噌醤油あわせても400件強と、酒と違って圧倒的に少ない。つまり「酒蔵には女人禁制のイメージが強くあるが味噌や醤油ではそのイメージは小さい」ようだ。無論これらは女人禁制があることもないことも意味しないが、どちらもコウジカビを用いた醸造には違いないのに、この差は興味深い。
何故そのような差が生じたのかを考えるに、恐らくは「神事」との関係性ではないかと思い当たる。

酒は古くから神事に用いられており、今でも神棚には神酒を供え、また酒造をそれ自体が神事となっている場合もある。
血を穢れと見做すことの多い神道では女人禁制が多く見られることは知られる通りだが、酒もまた神事としての酒造から女人禁制のイメージが強く存在したのかも知れない。
対して味噌は、奉納神事がないわけではないがごく限定的であり、醤油に至っては(元々は味噌の副産物であったためもあろうか)そもそも神事がない。
……ただ、本当に「神道からの影響」かどうかは断言できない。神道に女性が関わらないということはないし、神事に於ける酒造についても女性が関わる事例があるわけで、あくまで「そういう可能性もあるかも知れない」程度の話だ。

酒造と女性の関係性

上では神事との関わりから女人禁制に至った可能性を指摘したが、しかし実際のところ酒造が昔から女人禁制であったわけではない。
杜氏という男性職人集団による酒造りの体勢が成立したのは江戸時代に入ってからだ。米本位制経済制度の安定を目的に江戸幕府は酒造規制を乱発したが、その中に「寒造り以外の禁止」がある。
元々、酒は年に5回の仕込みが行なわれる年中醸造だった。しかし江戸初期にこれを冬の間のみに制限する寒造り令が出され、これを機に冬季の出稼ぎ職としての杜氏が成立するに至った。つまり、それまで酒は杜氏が造るものではなかったわけだ。
そもそも杜氏(とじ、とうじ)という言葉自体、元々は刀自(とじ)から来ている。これは現在では老女の尊称として使われる言葉であるが、元は戸主(とぬし)であったといい、家事一般をとりしきる主婦、あるいは宮中で台所をとりしきる下女を意味する。
ここからも解るように、酒の醸造は元々は女の仕事であったのだ。神事に於いても口噛み酒は巫女の役割とされるし、9世紀に出された律令である「養老令」を解説した令集解(りょうのしゅうげ)に於いても、造酒司(みきのつかさ)で酒を造る際には後宮から官女が出向くことになるとあり、古くは神事の酒も女性が司っていたことが伺える。
それが男の仕事へと変じていったのは江戸時代に入ってからのことであり、だとすれば酒蔵に於ける女人禁制の成立もまた江戸時代以降の新しい「伝統」に過ぎないということになる。それまで永きにわたり女性が関わってきたものが、近代になって男性の仕事になったことで女性が遠避けられたのであれば、その理由が「漬物の乳酸菌で醸造が失敗するから」といった「合理的な」理由であるとは考えにくく、むしろ「差別的な」理由であったと考えるのが妥当であろう。

まとめ

・「微生物のせいで醸造が失敗するから」女人禁制だという説は怪しい
・酒造りが男性の仕事になったのは近代のことで、伝統的なものではない
・酒蔵の女人禁制は神道方面からの影響かも知れない(が不明)

宗教的なことに合理的な理由を求めても仕方のない部分はあるが、食品製造業としての酒造が女人禁制を貫くようであれば差別的との謗りは免れ得まい。無論現代ではそんなことは行なわれていないはずで、過去にどうだったのであれそのころで現在に於いて非難されるべきではない。
ただ、「過去の女人禁制が合理的であり女性差別ではない」との見解に対してはきっちりと反論しておきたい。