http://lan.rgr.jp/essay/blog否定論

このところツッコミビリティの高い記事が目に止まることが多いので思わずツッコんでしまうが。
本日はblog否定論。要するに「Blogはwwwにとって害悪」と主張する記事である。
順を追って引用しつつ反論する。

HTMLの文法に準拠していない

ブログはマークアップと云う作業を機械的には行ってくれるも、正しいマークアップは行ってくれないのです。制作者がマークアップを行わなくて済むのは、無論制作者にとって便利ですが、閲覧者にとっては不便なのです。

それはBlog全般の特徴ではない。よしんば現在ただの一つも文法的に正しい構造を持ったBlogがないとしても、それはBlogの宿命的な構造ではなく「偶々現在は存在していない」に過ぎないので、この指摘はまったくの的外れ*1
なお、完全ではないもののはてなダイアリーなどは比較的標準に準拠したHTMLを吐く。

リソースの内容を表さないURI

ブログによって構築されるサイトは、URIのパス名部分が数字のみで表されたり、中身と全く関係がなかったりします。それはユーザビリティと云う観点から見て、優れたものであるとは言えません。URIは常にリソースの内容を的確に表しているべきです。残念ながら、その問題をブログに於て解決させるのは難しいものです。

一般的なHTMLが示すリソースの内容というのは精々内容を端的に表したファイル名やディレクトリ名程度のもので、内容というほどの内容はない。
その程度であればBlogでも(ものによっては)示すよう設定できる。
文書中でも参考に挙げられているhttp://hxxk.jp/2005/11/15/1850を見れば、TypePad系やはてなダイアリーなどがエントリIDを任意に設定できることは瞭然。

利用者にパス名を決めさせる方法もありますが、即書いて即公開の様なブログでは、計画性のあるURIを構築するのは少々困難です。

それはHTMLとて同様。最初に全体設計を行い隅々までURI設計を行うのでなければ、計画性のあるURIを保つことはできない。


また、多くのBlogではエントリIDとして投稿日時が付加されるので、時系列に沿った情報取得が容易である。無論HTMLでも実現可能なことだが、これもひとつの「リソースを示す」例と言えよう。

匿名で書かれる日記

これに関しては、匿名であることを悪しと考えていないので「見解の相違」の一言で終了。

間違ったリンクアンカーが氾濫

ブログでは度々「ここ」とか「こちら」とか云うアンカーが使われます。「詳細はこちら」と云う文章の内の「こちら」をアンカーとしたところで、アンカーがアンカーとして働かなくなったら、それは意味のない文章です。紙媒体の世界で「詳細はこちら」と書かれていても、閲覧者は何の事だか分らないでしょうし、事実その文章は何の意味も持ちません。

W3Cでも「Click Here!」などのリンク文字列は避けるべきであるとしているが、これが守られるかどうかはBlog固有の問題ではなくコンテンツ作成者の意識次第。実際に、HTMLベースでもこの問題は根強い。
また、

ログは基本的にオーサリングツールの様な形で記事を書きます。或部分を選択した状態でアイコンを押すと、そこが太字になったりするものです。が、その様なオーサリングツール形式のソフトウェアからHTML文書を作成するのは、HTMLの理念に真っ向から反対したものであります。

オーサリングツール或いはそのような機能を持ったBlog編集画面が所謂物理タグを実装するか否かは個々の問題であって、オーサリングツール或いはそのような機能を持ったBlog自体を否定する根拠にはならない。
或部分を選択した状態でアイコンを押すと、そこが太字になったりするではなく「或部分を選択した状態でアイコンを押すと、そこが強調になったりする」であれば何の問題もあるまい。

構造上Lynxや音声環境と相性が悪い

左側にメニュー、右側に記事等を置くテンプレートは、度々先にメニューを置き、その後に記事を置き、CSS等で段組み風にレイアウトさせる様な手段を採ります。が、もしもその段組みが崩れた場合、ユーザビリティはどれだけのものとなるでしょうか。Lynxなら、CSSを用いた段組みは消えます。すると、先ず、先に書かれたメニューが長々と出てきます。カレンダー、最近の記事、コメント、トラックバック、バックナンバー、カテゴリ等の目次が次々と出て来て、全てを読み終えたらやっと記事が出てきます。この構造が果して優れていると言えるでしょうか。

それは吐き出すHTMLの構造に拠ろう。例えばはてなダイアリーでは標準で本分の後にメニューを出力し、CSSで右または左に表示する形式を取る。これであれば懸念されるような問題は発生しない。
再度言うが、Blog全体に一般化できることではなく個々の問題に過ぎない。

分り辛いグローバルナビゲーション

ブログは、関連性の有無に拘らず、存在する全ての範疇へリンクを張ります。これをグローバルナビゲーションとここでは呼びます。ブログは、書かれた記事に、話題別の目次を作成します。WWWに関する記事を纏めた目次、政治に関する記事を纏めた目次、芸能に関する記事を纏めた目次―― 様々な目次を作成します。それなら良いのですが、ブログは各目次へのリンクを全て設けてしまうのです。WWWに関する記事を書けば、その同一文書内には、政治に関する記事を纏めた目次、芸能に関する記事を纏めた目次へのリンクが存在するのです。しかし、その様なリンクに一体何の価値があるでしょうか。誰も使わないのではありませんか。

各目次へのリンクをすべて表示するかどうかは設定次第。現在のところ、エントリに設定したカテゴリと同一カテゴリの記事のみを一覧表示する機能を有したBlogを寡聞にして知らない*2が、それは個々の機能の問題である。


ところで、グローバルナヴィゲーションとやらはそんなに判り難い、或いは不必要だろうか。
例えば芸能関係の情報を検索して辿り着いたエントリに、政治や技術に関するカテゴリへのリンクも掲載されているとして、閲覧者がそうした無関係な情報に目を止めるかも知れない。あたかも辞書を引くうちについ無関係な項目まで読み込んでしまうように。
ランダムにリンクを張っているのではない。同じ人物の別エントリに張っているのだ。それもまた一つの関連性だろう。

鬱陶しいと言わざるを得ないキーワードリンク

ブログの中には、はてなダイアリーを代表とした「キーワードリンク機能」が存在します。はてなダイアリーには用語集が付属しています。記事の中で「インターネット」と云うキーワードが出てきたら、インターネットについて説明しているリソースへと、自動的にリンクします。

そのような機能をもったBlogはごく一部、はてな及びはてなの技術を利用したBlogと、(知る限り)Livedoorだけだ。例によって一般化できる話ではない。

共同で作成する辞書自体に問題がある

Wikipediaなどでも度々話題に上ることだが、不特定多数の共同編集という方式の是非については賛否両論ある。実際に「Wikipediaの情報はブリタニカと同じくらい正確」--Nature誌が調査結果を公表 - CNET Japanといった記事もあり、必ずしもこの方式が専門家のみによる辞書編集に比べ信頼性に劣るとは言いきれない。

特にキーワードリンクは、出てきたキーワードを無差別にリンクします。複数回キーワードが出てきたら、全てをアンカーとしてリンクを張ります。しかし、リンクを張るとすれば、最初に出て来た時だけで十分です。ただでさえ利用者が多いか如何かが疑わしいにも拘らず、何度も何度も同じリンクが出て来るのは、閲覧者にとっては無駄な機能ではありませんか。

複数回リンクについては(少なくともはてなダイアリーには)初回以外リンクしない設定が可能であるので的外れ。

キーワードリンク機械的と云う欠点

機械的なリンクがときに正常な単語の区切りを断ち切ってしまう問題点は否定しない。但し上記で述べたようにごく一部のBlogのみに備わった機能であり一般化できる話ではない。

コメントやトラックバックは閲覧者にとっては不要

ブログの醍醐味とも言える機能がコメントやトラックバックですが、私はどちらも良くないと考えています。逆に言えば、良くない機能がブログの醍醐味だから、ブログが必然的に良くないものとなるのであります。

  1. Blogは良くない
  2. 何故なら良くない機能がブログの醍醐味だから
  3. その根拠は、私がそう思うから

まったく説明になっていない。単純に好みを語るに過ぎない。

コメントが駄目な理由

純粋に著作者の文章のみを読みたい閲覧者にとって、コメントは不要な機能です。

コメントは著作者が任意に削除可能であるから、そこに掲載されたコメントは著作者が残すべきものとして選択した結果であると考えられる。それもまた、著作者の考えを示すひとつの情報だろう。

コメントは掲示板と全く変らないものであります。コメントが著作者と閲覧者の馴合いに終ってしまうなら、それを記事と同じリソースに打ち込む等、迷惑な話です。

馴れ合いに終わるかどうかはコメント次第著作者次第だろう。一般化できない。
記事内容について有益な議論が交わされる場合もある。その場合はむしろコメント機能の存在がプラスに働いていると言えよう。

ブログに有益な情報が書込まれる事もないとは言えません。しかし、あるとしたら、その割合はどれほどのものでしょう。或記事に関して、非常に貴重で有益な情報を持っている人がいたとしましょう。が、頭の良い閲覧者は、そう簡単に他人に情報を与えて良いとは考えていません。自分の著作物として扱うか、余程気に入った人相手じゃないと、その情報を公開したりなんてしません。

かなり偏見が混じっていないか。少なくとも、有益な情報を持った人が他人に情報を与えて良いと考えていないかどうかは調査不能
私はWebの文化を知識共有という形で捉えているので、有益な情報が軽々しく公開される割合はもっと高いと見積もっている。無論これも私見に過ぎないが。

制作者と連絡を取りたければメールで遣れば良い。リソースの共有が前提となって成立しているWWWに於て、コメント機能は、掲示板と同様に不要なものであると私は思います。

記事内容に関する情報を、著作者にのみ与えるのではなく閲覧者とも共有すべきと考えてコメントなりトラックバックなりを利用するのは利に適った行為だと思われる。

トラックバックが駄目な理由

トラックバック用のURIへリンクをしているブログが偶にありますが、それはユーザビリティを著しく損ねる存在です。ブログ利用者の事を考えて、「ブログ利用者にとっては便利な機能」を用意すると、ブログの事を余り知らない普通の閲覧者は困惑します。トラックバックURIとは何なのかを知りたいので、リンクをポイントしたら、「エラーです」とか「ログインしていません」とかのエラーメッセージが出て来ます。ブログの事を知らない閲覧者は、当然困惑します。事実、昔、私はその様な体験をした事があります。トラックバックの説明でも書いてあるのかと思ってポイントすればエラーメッセージが出る。無論、困惑するでしょう。ブログの制作者は、ブログの利用者の事を考えているのかも知れませんが、本質的には何も考えていないのではないか。

それはそのBlogの設計が拙いだけ……というようなことを何回書けば良いのだろうか。
普通はトラックバックURIは単なる文字列として表示されており、リンクとして機能することは稀であろう。設計次第では、はてなダイアリーのようにエントリへのURIがそのままトラックバックURIになるようにもできる。

自分自身へのリンクは混乱を招く

ブログでは記事に見出しが付きますが、その見出しが全てアンカーになっている事が良くあります。そのアンカーをポイントすると、その見出しに続く記事へと飛ばされます。
(略)
そのアンカーをポイントすると何処に行くのか。ポイントしても中身は同じじゃないか。何の為のリンクなんだ。閲覧者は疑問に思う筈です。或は、「ポイントしたけれども同じ記事だ。ここは如何なっているんだ」と困惑してしまう確率もないとは言えません。

設定次第だが、普通トップページでは過去数日分のエントリが表示されている場合が多い。その場合、アンカーをクリックする前と後は内容が違う(正確には、同じ内容を含んでいるがまったく同一ではない)。従って困惑することはない。
また、既にBlogはかなり広まっており、その作法についても理解が進んでいる。逆に見出し毎にアンカーが設定されていないことに違和感を持つようになるのもそう遠い話ではあるまい。

個別の記事へ移動するだけとは限りません。別の記事への言及を行っている場合、見出しから、言及している記事へリンクを張る事もあります。


見出しをポイントすると別の人の記事へ飛ばされる。でも、別のブログでは同じ記事がもう一度表示される筈だった。きのうのブログときょうのブログが全然違う機能を持っている。ブログと云う点で共通しているものだから、見出しとなったアンカーの見た目は大体共通している。だから、余計ややこしくなる。紛らわし過ぎる。

そもそもタイトル部全体がアンカーとして機能するなら、その中に別のリンクを設定できないようにシステムを設計すべきであり、それはBlogだから悪いという話ではなくそのBlogの設計が悪いというだけのこと。

■や_が日記の題名

これなら、見出しほどは紛らわしくないでしょうが、普通の閲覧者が、何処かへのリンクだと思ってポイントする確率はないとは言えません。ないとは言えないから問題なのです。

実際にどこかへのリンクなのだから問題はない。そうでなく、単に■を見るとクリックしてしまうのだとすれば、その閲覧者は何か変なルールを覚えてしまったに違いない。
デファクト・スタンダードとして「下線はリンク」「青や紫の文字はリンク」という共通認識はあると思うが、「■はリンク」というのは聞いたことがない。

しかし、<a name="d13n01" href="#d13n01">■</a>と書かれていて、<a href="http://www.sampblog.com/180113#d13n01">とリンクを張る以上は、アンカーは■にするのが正しい

リンク文字列の中身を書き替えてはいけないというルールは初めて聞いたのだが、W3Cあたりがそう規定しているのだろうか。大変興味があるので是非ソースを示されたい。

荒廃した組織

今やブログはWeb 2.0を構成する要素として確立した組織でありますが、私は最早この組織は荒廃していると思います。

「ブログ」という組織は存在しないと思うが。
組織=団体ではなく「器官」の下部構成要素としての「組織」の意味だろうか?

人間が運用しているものは、仮令それが機械だったとしても、作った、或は使っている人間の精神が生きています。仮令周りから非効率的だとか非合理的だとか非難されようが、人が手作業で構築したものにはその人の精神が移り住み、良くも悪くも個性的で一貫性があります。謂わば人間味が物質へと滲透するのです。その人間味が、ブログには聊かも感じられない。機械化と云う名の元に、機械は機械として独立し、制作者の精神も利用者の精神も、介在する余地がありません。だから荒廃だと言うのです。

Blogは人間が作り運用しているので、当然作った、或は使っている人間の精神が生きている。システムに「人間味」とやらが必要かどうかはともかく、設計思想は垣間見えるし、制作者の精神や利用者の精神が介在している。その点に疑いの余地はない。
「感じられない」というのはあくまで個人の印象論だ。

最後に罵詈雑言

態々コメントやトラックバックがない事を批判してくる人が偶にいます。

コメントやトラックバックがないことが批判されるのは不当だという点は同意する。しかし、

ブログ利用者はブログに精神を犯されているのです。ブログは、非常識だと主観的に判断した人物を迫害しようとする人間を構築します。ブログは覚醒剤です。

人格攻撃は見苦しい。根拠のない中傷は自分に返るものと心得よ。

関連

既に大体反論されているので、ここで長々と書く必要もなかったようだ。

*1:この文書全般に言えることだが、一部Blogサーヴィスの機能を一般化して扱う傾向にある

*2:これは検討に値する