なるほど、リンクには価値がある。けれども、

リンクの価値というのは「リンクして貰う」ことの価値であり、「リンクさせてやる」ことの価値ではない。
ただし「リンクして貰う」ことの価値は一方的に享受するものではなく、リンクした側にも利点をもたらし、取引的には等価となっている。


昔、wwwに静的HTMLしかなかった頃は、リンクというのはこちらから一方的に張ることはできても向こうからして貰えるかどうかは保証されなかった。だからこそ全てのページを集めたハブとしてYahoo!のようなインデックスが有用だったのだし、またリンクした旨を申し出て「できればこちらにもリンクして欲しい」とお願いする必要があった。この風習はいつの間にか事後の「相互リンク願い」から事前の「リンク許諾申請」という形に変化してゆく。即ち、相手に対し自分へのリンクを請う形から自分からのリンク自体を許可願うように、全く逆の形式になっていることに注意されたい。
そのような誤解がどこから生じたのかは定かではないが、日本では一時期、半ばリンクに許可を求めることが常識化していたきらいがある。
これを覆すに至ったのは明らかにBlog登場以後の事であろう。Blogはその機能上、「こちらからの操作で向こうからのリンクを生成させる」という特徴があった。即ち、申請なしにリンクを「奪う」機能である。
先程のリンク価値に照らすならば、一方的なトラックバックによる逆リンクは価値の略奪であると言って良い。例えばspam TBがそれである。
最近ではTB元からのリンクがあることが確認できた場合のみTBを許可するなどの仕組みによって、一方的なリンク略奪は阻止されるのが一般的である。


リンクの価値とコンテンツの価値は切り離して考える必要がある。コンテンツの価値に対する報酬がリンクの数であり、リンクされる側の利点はアクセス可能性が向上すること、リンクする側の利点は価値あるコンテンツを「取り込める」ことにある(有用なコンテンツを紹介する、というコンテンツの価値として)。
この「コンテンツ価値」だけを考慮するならば、リンクするという行為はその価値を「奪う」と言えなくもない。無断リンク禁止派の言う「泥棒」との謗りは、主にこの認識を中心に発せられるものと言えよう。しかし結局、どんなに価値ある(筈の)コンテンツであろうともリンクがなければ誰にも見られることなくネットの海に埋もれてしまうのだ。


最初に「リンクすることで得られる利点」と「リンクされることで得られる利点」が取引的に等価であると述べたが、それはコンテンツの有用性とリンク先の有用性が等価であって初めて成立することとも言える。アダルトサイトからリンクを受ける場合や無益な宣伝コンテンツからのトラックバックのように、必ずしも望ましくない取引も存在し、それらを遮断したいとの考えは不自然ではない。そしてトラックバックについては自らの手の裡にあるコンテンツであるのでいかようにも扱えるし、システム的に一方的な略奪を行えないような構成にもできる。となれば、リンクもそうあるべきとの考えにはそれなりの妥当性があろう。
けれども、古い仕組みであるリンクにはそのような防御機構が備わっていないし、いずれにせよ(トラックバックがそうであるように)システム的に防衛しなければ実現不能であるのは致し方あるまい。


意に染まぬリンクを排除したり、トップページへしかリンクできないような仕組みを作ることは難しいことではない。なんなら簡単なCGIを書いても良い。けれども、そのような所業は閲覧者の利便性を損い、結果としてコンテンツの価値自体を減じる行動であることは意識せねばならない。
リンクできないページなど誰も見てくれない。特定サイトからのリンクを排除したい、トップページ以外へのリンクをリダイレクトしたい、というのはコンテンツ制作者のエゴであり、利用者の立場を無視した「悪い」行ないである。