Lumix G 42.5mm/F1.7で撮ってみる

というわけで先日の「汎用に使えるレンズ」まとめで番外に入れた単焦点レンズを買ってみた。実はこれが初めての単焦点レンズ……じゃないな、よく考えてみたらMFTだけど7.5mm Fisheyeとか買ってたわ。でも中望遠の単焦点レンズは初めて……じゃなかった、オールドレンズだけど50mmを2本も買ってたわ。ということはオートフォーカス単焦点は初めて……じゃないな、そういえば30mm MACRO持ってたわ。

……いやまあその、とにかく単焦点である。これまで最も明るいレンズが50mm/F2のJupiter-8、オートフォーカスに限れば30mm Macro F2.8だったので、それより明るいF1.7は初めて、ということになる。

利点は明るさと軽さ。単焦点で、マクロのような特殊機能のない設計のため、所持している中ではGM1のキットレンズだった12-32mm(わずか70g)に次ぐ130g、E-PL8の本体重量と合わせても500gだ。これで手ブレ補正の強いPOWER O.I.S.、最短31cmまで寄れる倍率0.4倍という設計は、パナソニックのレンズラインナップ中では高級路線のLEICAブランドどころか新鋭のG-Xラインですらない唯のLumix Gとは思えないほど高機能である。まあオリンパスもキットレンズだった12-50mmがプラ鏡筒の安物ながら広角〜中望遠ズームかつマクロという謎の高機能レンズだったし、むしろ普及価格帯だからこそ、なのかも知れない。要するに撒き餌か。

その機能性に惹かれてつい買ってしまったのだが、実のところ別段なにか必要性があったわけではない。換算85mmに近い画角は既に持っている12-50mmでも45-175mmでもカヴァーでき、寄れるレンズとしても12-50mmと30mm Macroがある。軽いレンズだってGM1のキットレンズである12-32mmがあって、いずれもその方面のスペックでは42.5mmより優れている。唯一これまでにない性能はF1.7という明るさで、無論それこそが単焦点ゆえの利点なのだが、それがどの程度の違いを生むのかは正直よくわからない。

とりあえず機能的な比較から始めてみた。まずは30mm Macro F2.8と45-175mm F3.5-5.6を併用して、同じ被写体を同じぐらいに撮ってみる。

こうしてみると42.5mmはたしかに狭い範囲にピントが合って前後が強くボケるのだが、30mm Macroも同じぐらいにいい仕事をしており、F1.7でもF2.8でも大きな差を感じない。流石に望遠端175mmのF5.6はだいぶ硬いが、被写体が浮き立つ程度のボケは得られており、マクロ撮影がしたいのでなければ充分なぐらいだ。

ボケ以外に、明るさを活かせる使い方といったら暗所撮影だろうか。夜のスカイツリーを、橋の欄干に肘を付いて支えた状態で手持ちで撮ってみる。

3枚撮って一番マシなのを選んだが、シャッタースピード1秒で手ぶれ補正があれば撮れる範囲の42.5mm F1.7に対し、広角端45mm F3.5の6秒はおろか30mm Macro F2.8でも4秒と、とても実用にならない。
とはいえ夜景専用レンズというのも使い方としてはイマイチだ。三脚が必要にはなるが、夜景はむしろシャッタースピードを遅くして光を流すのがひとつの楽しさでもあり、そうするとF1.7の明るさは不要になる。

最短31cmを活かしてカップケーキも撮ってみたが、近いところで撮るときにはF1.7だとボケすぎる。
撮影距離にもよるが、だいたいF2.8〜4ぐらいまで絞ってちょうど良い感じか。

ここでもF1.7があまり活きていない。まあそれはそれとして、画角と撮影距離はなかなかいい感じだ。

逆光を入れてもハレーションは穏やか。こういう使い方には向くのか。

そんなわけで、ファーストインプレッションとしてはどうにも使い方の見出しにくいレンズという感じを受けた。もっとも、これは私が中望遠にも単焦点にも不慣れであることが大きく、決してレンズの魅力が弱いということではないだろう。
とにかく、買った以上はしばらく使ってみよう、とレンズをこれ1本に絞って色々撮ってみた。

望遠の利便性よりも不便を感じる「やや狭い」画角は、しばらく使っていると思ったより馴染んでくる。もちろん「もっと寄れれば」「もっと引ければ」と思うことは多いのだが、割り切って「これで切り取れる範囲を探す」ようになると、まあそれなりに雰囲気が出てきた。





意外だったのは接写だ。元々、水滴が好きでマクロレンズを使って撮影していたのだが、大きく写すことに夢中になるとどうしても他への注意が疎かになりがちでイマイチ良い感じに撮れない。
ところが42.5mmはそこまで寄れないので、その分だけ被写体を広く見ることになり、結果として主役が水滴自体から水滴を纏った花などに移り、雰囲気のある写真になる。

もちろん普通に花を撮っても、ボケ具合がいい感じに働いてくれる。

まだ手に馴染ませている最中だが、使い回しの利く単焦点としての活躍を期待している。

マイクロフォーサーズの汎用レンズを選ぶ

レンズ交換式カメラの利点は「必要に応じて最適なレンズを選ぶことにより撮影の幅が広がる」ことだが、欠点はその裏返し:「多数のレンズを使い分けねばならない」ことだ。すべてのレンズコレクションをいつでも利用できる状況ならば良いが、外出先などレンズの限られる時には「どれを持ってゆくか」が悩ましい。
それは購入時にも言えることで、予算に限りがある以上は少ないレンズで広い範囲をカヴァーしたい。それには、なるべく使い回しの効く汎用性の高いレンズがあると何かと便利だ。
マイクロフォーサーズのレンズラインナップから、様々な用途を想定した汎用性の高いレンズを探してみよう。

人を撮る

日常的によくある使い方かと思われるものの、個人的にはにまったく興味がないため曖昧な知識になるのだが、いわゆるポートレート撮影では一般的に「単焦点の中望遠レンズ」が良いとされる。
広角で撮ると強いパースがついてしまうため体のサイズ感が狂い、たとえば「頭が大きく体が小さい」感じに映るのは(特殊な効果としてわざとやるのでなければ)好ましくない。望遠の強いレンズはパースが付きにくいためこの用途に向くが、逆に被写体との距離が離れすぎてはポーズなどの指示が届かなくなるので、適度な望遠と適度な距離感を両立させるのがちょうど焦点距離にして85〜90mmあたり、ということのようだ。
また、単焦点が推奨されるのはズームレンズより明るく背景をボカしやすいためで、人物だけを浮き立たせるのに適するからだ。

従って人物撮影のみを目的とするならば42.5mm(換算85mm)あるいは45mm(換算90mm)の単焦点を選ぶところだが、今回は「汎用の一本」を選ぶことが前提なので「この範囲を含む(なるべく明るい)ズーム」で妥協しよう。

焦点距離80〜100mmを範囲に含むズームレンズは20本以上あるが、明るいレンズとなると限られる。

  • 全域F2.8
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO
    • Panasonic : LUMIX G X VARIO 35-100mm F2.8 Ⅱ POWER O.I.S.
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO
  • F2.8-4.0
    • Panasonic : LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0 ASPH. POWER O.I.S.
    • Panasonic : LEICA DG VARIO-ELMARIT 50-200mm F2.8-4.0 ASPH. POWER O.I.S.
  • 全域F4
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO

あたりになる。これ以外はF3.5-6ぐらいになってくるので、あまりボケの強いレンズではない(もちろん、それらでは撮れないということはないのだが)。

料理を撮る

料理を撮るために最も重要なスペックは「最短撮影距離」だ。
椅子に座った状態で、目の前に置かれた料理と手の距離は10cmぐらいしかない。やや体を引くぐらいの自由度はあるとしても、カメラと被写体の距離はせいぜい30cm前後の範囲で撮影することになるだろう。それ以上となると席を立って離れた位置から撮影せざるを得ず、仕事でならばともかく客としてやることではない。

というわけで最短撮影距離が40cm未満のレンズを探そう。
ただしズームレンズなので全域でこの撮影距離が有効とは限らず、広角側では短かくとも望遠側ではもっと長くなる場合もある。全域で40cm未満のレンズのみに絞ると、

  • 全域0.2m
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO
    • Panasonic : LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0 ASPH. POWER O.I.S.
  • 0.2-0.25m
    • Panasonic : LUMIX G VARIO 12-60mm F3.5-5.6 ASPH. POWER O.I.S.
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 EZ
  • 0.2-0.3m
  • 0.2-0.35m
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ
  • 全域0.25m
  • 0.25-0.3m
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R
  • 全域0.3m

に限られる。
もっとも、全域でなくとも最短撮影距離30cm以内であれば撮りようはあるわけで、

  • 0.15-0.45m
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO
  • 0.22-0.7m
    • OLYMPUS:M.ZUIKO DIGITAL ED 12-200mm F3.5-6.3
  • 0.3-0.5m

も加えていいかも知れない。

花を撮る

花や虫など、屋外で小さなものを撮る時に必要なのは「近くまで寄れる」ことではなく「大きく写せる」ことだ。もちろん寄った方が大きく写るのだが、望遠で「あまり寄らずに大きく写す」のでも(それが可能ならば)問題はない。
主なマクロレンズについてはマイクロフォーサーズ マクロ撮り比べ - 妄想科學倶樂部でまとめたが、取り上げたのは12-50mmを除けばいずれも単焦点マクロレンズのみであるので今回は除外して、ズームレンズで撮影倍率0.5倍以上のものを探す。

  • 倍率x0.72
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ
  • 倍率x0.6
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO
    • Panasonic : LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0 ASPH. POWER O.I.S.
    • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO
  • 倍率x0.54
  • 倍率x0.52
    • Tamron: 14-150mm F/3.5-5.8 Di III Model C001
  • 倍率x0.5

風景を撮る

風景はちょっと難しい。というのも、「近い位置から全景を広く撮りたい」場合と「遠い位置から近付けない場所を撮りたい」場合が混在するからだ。前者は広角レンズの、後者は望遠レンズの守備範囲で、両方をカヴァーするのは結構難しい。
焦点距離何mm以下を広角とし何mm以上を望遠とするか明確な定義はないが、便宜的に換算28mm以下の「ちょっと広い」範囲から100mm以上の「ちょっと遠い」範囲までを手広くカヴァーしてくれるレンズを探す。
このタイプのレンズ群は大雑把に「わりと広くてちょっと長い」「ちょっと広くてかなり長い」に分かれる。広角端が12mmからあるけど望遠端が60mm程度のものと、広角端は14mmとやや物足りないものの望遠端が140mmぐらいあるものだ。その中間に12-100mmというちょっとスゴいレンズが挟まる。
2019年、12-200mmという、さらに超高倍率のレンズが加わった。

  • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ
  • Panasonic : LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0 ASPH. POWER O.I.S.
  • Panasonic : LUMIX G VARIO 12-60mm F3.5-5.6 ASPH. POWER O.I.S.
  • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO
    • OLYMPUS:M.ZUIKO DIGITAL ED 12-200mm F3.5-6.3
  • Panasonic : LUMIX G VARIO 14-140mm F3.5-5.6 ASPH. POWER O.I.S.
  • Tamron: 14-150mm F/3.5-5.8 Di III Model C001
  • OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6Ⅱ

なお「車を撮る」場合もだいたい広角〜望遠域を押さえておけばいいと思う。広角側で撮るとパースが強調され「迫力ある」写りになり、望遠側で撮ればパースを抑えて歪みの少ない、ただし長さ方向が圧縮された写りになる。どちらが好ましいかを場合によって使い分けることができる。

総じて優れたレンズを探す

以上から、多くの場面で使い回しの利きそうな便利レンズを絞り込む。つまり、スペック的には

  1. F値が4以下
  2. 最短撮影距離が0.4m未満
  3. 撮影倍率が換算0.5倍以上
  4. 焦点距離が換算28mm以下〜100mm以上

のうち、少なくとも3点以上を満たすレンズである。

なお、これらはあくまでカタログスペックからの抽出なので、実際の使用感などが汎用と言えるかどうかはまた別の話ということで。

OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO

【明るさ】F2.8【最短撮影】0.2m【撮影倍率】x0.6倍【焦点距離】換算24-80mm
望遠側が僅かに物足りない以外ではほぼ満点のレンズ。特に明るさはズームレンズ中随一、最短撮影距離も撮影倍率もトップクラスである。敢えて欠点を挙げるとすれば価格が高めであることと重いことぐらいか。とはいえ実売7万円台、400g未満と性能を考えれば充分に手軽な範囲ではあるのだが。
レビューと作例

OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ

【明るさ】F3.5-6.3【最短撮影】0.2m【撮影倍率】x0.72倍【焦点距離】換算24-100mm
こちらは逆に最安価クラスにも関わらず明るさ以外ではトップクラスという謎レンズ。マクロモードの切り替えが煩わしいという意見もあるが、その代わりに2万円以下、200g程度のレンズで0.72倍のセミマクロと換算24mm-100mmという汎用性の高い焦点距離が手に入る。
何故か生産終了になってしまったらしいのだが、キットレンズで出回ったこともあり未だ入手は容易。
レビューと作例

Panasonic : LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm F2.8-4.0 ASPH. POWER O.I.S.

【明るさ】F2.8-4.0【最短撮影】0.2m【撮影倍率】x0.6倍【焦点距離】換算24-120mm
イカの名を冠したハイスペックレンズ。価格は高めだが、その分だけ全領域について対応できる汎用レンズである。今回挙げた全項目を満たせるレンズは、これの他にもう1本しかない。
レビューと作例

Panasonic : LUMIX G VARIO 12-60mm F3.5-5.6 ASPH. POWER O.I.S.

【明るさ】F3.5-5.6【最短撮影】0.2-0.25m【撮影倍率】x0.54倍【焦点距離】換算24-120mm
こちらは明るさを捨てライカの名を捨て、その代わりに重さが2/3、価格が半分になった廉価版。安物とはいえ上位種と遜色ない性能を持つお手軽レンズ。
レビューと作例

OLYMPUS : M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO

【明るさ】F4.0【最短撮影】0.15-0.45m【撮影倍率】x0.6倍【焦点距離】換算24-200mm
もう1本の満点レンズである。明るさではF4と一歩劣るが、その代わりに全域で明るさが変化せず、広角24mmから望遠200mmというカヴァー域の広さは魅力的。ただしお値段12万円台、重量561g、長さ116.5mmと色々ヘヴィー級。でもまあ、いわゆる「小三元」2本分がひとつになったレンズだと思えば納得ではある。
レビューと作例

Panasonic : LUMIX G VARIO 14-140mm F3.5-5.6 ASPH. POWER O.I.S.

【明るさ】F3.5-5.6【最短撮影】0.3-0.5m【撮影倍率】x0.5倍【焦点距離】換算28-280mm
やや広角-超望遠域をカヴァーする高倍率ズームレンズはオリンパス/パナソニック/タムロンと3本も出ているが、その中でパナソニックの14-140mmは他の2本に比べ若干望遠が控え目な代わりに、最短撮影と撮影倍率がギリギリ条件を満たしランクイン。
レビューと作例

番外1:Panasonic : LUMIX G 42.5mm F1.7 ASPH. POWER O.I.S.

【明るさ】F1.7【最短撮影】0.31m【撮影倍率】x0.4倍【焦点距離】換算85mm
単焦点のため今回の趣旨からは若干外れるのだが、焦点距離を広く使えないこと以外ではほぼ要求水準を満たしていたため番外で紹介する。
ポートレート向けの中望遠レンズなのだが、この焦点域にしては珍しく最短撮影距離が短かいため撮影倍率も高めで、風景写真向けの画角以外の点ではかなり使い勝手の広いレンズと言える。もちろん単焦点なので明るさでは群を抜いており、暗所での撮影や綺麗なボケの欲しい局面で重宝するだろう。単焦点で一本持ち歩くならオススメしたい。
レビューと作例

番外2:OLYMPUS:M.ZUIKO DIGITAL ED 12-200mm F3.5-6.3

【明るさ】F3.5-6.3【最短撮影】0.22m(広角端)/0.7m(望遠端)【撮影倍率】x0.46倍【焦点距離】換算24-400mm
12-100mm PROから4通しのF値を捨てた代わりに換算400mmまでの充分すぎる望遠性能に振った、超便利ズーム。明るさこそ基準外ながら、撮影倍率は(今回の合格ラインには若干不足するものの)x0.46倍と充分に寄れ、その上で24-400mmという超広範囲をカヴァーする万能ぶり。しかもプラ鏡胴なので軽量コンパクトかつ安価……とはいえ単純に1本のレンズ価格としてはお高めなのだが、でもまあ3本分以上の働きをしてくれると思えば安いものか。
レビューと作例


あるいは、(マクロ記事の方で詳しく触れたので名前の紹介のみに留めるが)LEICA DG MACRO-ELMARIT 45mm/F2.8 ASPH./MEGA O.I.S.を使ってもいいかも知れない。こちらは換算90mmでF2.8なのでポートレートにも悪くないし、もちろん最短撮影距離や撮影倍率も申し分ない。

酒蔵と女人禁制

「酒蔵が女人禁制であったのは差別ではないか」とする問いに、「女性は糠床を触るため酒蔵の菌に影響が出るから」と杜氏が答えた、という話がまことしやかに広まっている。
togetter.com
伝聞につき元発言者である杜氏の意図するところが差別性の否定であったかどうかは不明だが、少なくともTwitterの発言者は「女人禁制は差別にはあたらない」という意図でこれを書いたものと思われ、またTogetterまとめ主は明確にそれを意図している。
しかし、「差別にあたらない」とする理由としては些か納得しかねたので、ひとつ書いてみたい。

酒と発酵食品の関係性

発酵食品、たとえば酒やチーズ、漬物、ヨーグルトなどはいずれも微生物が重要な役割を担っており、製造所ごとの微妙な味わいの差もそうした常在の細菌叢の違いによって生じている。ここに「強い」細菌が持ち込まれると、それによって本来あるべき細菌が駆逐され発酵が失敗、場合によっては倉ごと終わりを迎えかねない事情があり、注意を払わねばならぬのは確かであろう。とりわけ納豆菌などは重大な禁忌のひとつだ。
しかしそれが「女人禁制」を正当化するか、という話になると少々込み入ってくる。

仮に「女性は糠床を触るため酒蔵の常在細菌叢に影響が出る」のだとして、じゃあ何故「女性だけが」糠床を触るのか、といえば「家事の一切は女の仕事」という認識のせいであろう。「男は家の外で働き金を稼ぎ、女は家の中で働き男の稼ぎによって『食わせてもらっている』」という認識の差別性は今更説くまでもあるまい。
「ゆえに女は酒蔵への立ち入りを禁ずる」のは、それ自体は直接的には差別的意図でなかったとしても、差別構造によってその必要性が維持されてきたのだとすれば、やはり差別のひとつではあろう。
まあ、(これが理由だとすれば)あくまで「日本社会全体の男女差別性」であって「酒造業の差別性」ではないので、もちろん「杜氏に女性を差別する意図があった」ということにはならない。

微生物による発酵という現象が解明されたのはごく近代の話であり、それまでの発酵は「こうやると何故かそうなる」という純然たる経験則の賜物である。チーズの青カビ/白カビや日本の醤油・味噌・酒などに共通するコウジカビあたりは目に見えるので認識があったにしても、糠漬の乳酸菌や納豆の枯草菌などを認識していたわけではない。したがって糠床の乳酸菌云々は、経験の蓄積があったとしてもせいぜい「なぜか女が蔵に入ると失敗する」ぐらいのところであり、明確に「女は糠床を触るから」と認識されていたわけではない。
そもそも現代のように多くのデータを集め因果関係を明らかにするような「科学的思考」など成立していない時代の話であるから、実際に「女性が立ち入ると失敗するから」であったかどうかさえ怪しく、糠漬と酒造(の失敗)にある程度の関係性があったとしても、「女人禁制であった理由」がそれであるとも限らない。
「女だけが糠床を触る」のが現代の視点では女性差別であろうとも当時の認識では当然のことであったのと同じように、現代から見た後付けの「合理性」が、実際に合理的理由から成立していたかどうかは怪しい。

だいたい、日本酒の醸造でも糠漬と同じく乳酸菌が主要な役割を果たすのだ。ならば酒蔵と糠床を行き来する女性の「持ち込む」乳酸菌は基本的に酒蔵のそれと同じ種であろうと考えられ、それが原因での失敗というのは可能性が低いのではないだろうか。もちろん、醸造の段階に応じて支配的な細菌種が変化するので「今このタイミングで乳酸菌はまずい」ということも考えられないわけではなく、それが理由だとする説を完全に否定するものではないが。

ところで日本の発酵食品といえば酒以外には味噌・醤油、納豆、漬物などが想起される。このうち「他の細菌よりも強い」納豆、「家庭で女性が扱う」漬物はさておき、味噌および醤油蔵に於いても女人禁制の決まりがあるのだろうか。
たとえばGoogleで酒蔵あるいは酒造かつ女人禁制で検索すると6万件強のヒットがあるのに対し、味噌醤油あわせても400件強と、酒と違って圧倒的に少ない。つまり「酒蔵には女人禁制のイメージが強くあるが味噌や醤油ではそのイメージは小さい」ようだ。無論これらは女人禁制があることもないことも意味しないが、どちらもコウジカビを用いた醸造には違いないのに、この差は興味深い。
何故そのような差が生じたのかを考えるに、恐らくは「神事」との関係性ではないかと思い当たる。

酒は古くから神事に用いられており、今でも神棚には神酒を供え、また酒造をそれ自体が神事となっている場合もある。
血を穢れと見做すことの多い神道では女人禁制が多く見られることは知られる通りだが、酒もまた神事としての酒造から女人禁制のイメージが強く存在したのかも知れない。
対して味噌は、奉納神事がないわけではないがごく限定的であり、醤油に至っては(元々は味噌の副産物であったためもあろうか)そもそも神事がない。
……ただ、本当に「神道からの影響」かどうかは断言できない。神道に女性が関わらないということはないし、神事に於ける酒造についても女性が関わる事例があるわけで、あくまで「そういう可能性もあるかも知れない」程度の話だ。

酒造と女性の関係性

上では神事との関わりから女人禁制に至った可能性を指摘したが、しかし実際のところ酒造が昔から女人禁制であったわけではない。
杜氏という男性職人集団による酒造りの体勢が成立したのは江戸時代に入ってからだ。米本位制経済制度の安定を目的に江戸幕府は酒造規制を乱発したが、その中に「寒造り以外の禁止」がある。
元々、酒は年に5回の仕込みが行なわれる年中醸造だった。しかし江戸初期にこれを冬の間のみに制限する寒造り令が出され、これを機に冬季の出稼ぎ職としての杜氏が成立するに至った。つまり、それまで酒は杜氏が造るものではなかったわけだ。
そもそも杜氏(とじ、とうじ)という言葉自体、元々は刀自(とじ)から来ている。これは現在では老女の尊称として使われる言葉であるが、元は戸主(とぬし)であったといい、家事一般をとりしきる主婦、あるいは宮中で台所をとりしきる下女を意味する。
ここからも解るように、酒の醸造は元々は女の仕事であったのだ。神事に於いても口噛み酒は巫女の役割とされるし、9世紀に出された律令である「養老令」を解説した令集解(りょうのしゅうげ)に於いても、造酒司(みきのつかさ)で酒を造る際には後宮から官女が出向くことになるとあり、古くは神事の酒も女性が司っていたことが伺える。
それが男の仕事へと変じていったのは江戸時代に入ってからのことであり、だとすれば酒蔵に於ける女人禁制の成立もまた江戸時代以降の新しい「伝統」に過ぎないということになる。それまで永きにわたり女性が関わってきたものが、近代になって男性の仕事になったことで女性が遠避けられたのであれば、その理由が「漬物の乳酸菌で醸造が失敗するから」といった「合理的な」理由であるとは考えにくく、むしろ「差別的な」理由であったと考えるのが妥当であろう。

まとめ

・「微生物のせいで醸造が失敗するから」女人禁制だという説は怪しい
・酒造りが男性の仕事になったのは近代のことで、伝統的なものではない
・酒蔵の女人禁制は神道方面からの影響かも知れない(が不明)

宗教的なことに合理的な理由を求めても仕方のない部分はあるが、食品製造業としての酒造が女人禁制を貫くようであれば差別的との謗りは免れ得まい。無論現代ではそんなことは行なわれていないはずで、過去にどうだったのであれそのころで現在に於いて非難されるべきではない。
ただ、「過去の女人禁制が合理的であり女性差別ではない」との見解に対してはきっちりと反論しておきたい。

SF評論とSF賞の関係について

SF作家、北野勇作氏が「SF評論はSF大賞の対象として相応しくない」旨の発言をし、


それにSF評論家、岡和田晃氏が「SF評論はSFでもあり評論でもある」という反論を行なった。

この一連の流れはそもそもが「SF界はSFゲームを正当に評価していない」という趣旨の記事がまずあり(それに対しては「SFマガジン等でもSFゲームを取り上げてるし、その記事内で『SFとして評価されるべきゲーム』として取り上げているそのタイトルについてはSF出版社からSF作家によるノヴェライズまで出てますよね」といった反論が為された上で)、「ゲームとは別に、SF評論がSF賞を(ほとんど)獲れないことへの批判もある」旨の発言を受けてのことであるのだが、


そこを踏まえて批判を試みたい。

この問題は2つの主題から成る:ひとつは北野氏の発言による「SF賞の受賞対象にSFそのものではないSF評論を含めるべきか否か」、次にその反論として為された岡和田氏の発言に基づく「SF評論はSFか」。

SF評論はSFか

これは「SF」の定義からしても、他の評論に照らしても、単純に「違う」と言ってよいと考えられる。

ご存知の通り、SFとは「Science Fiction」である。あくまでフィクションであることがSFの要点であり、科学をテーマに扱っていてもノンフィクションはSFではない。SF評論はフィクションを論じるが、それ自体がフィクションではないため、SFとは言えない。

評論が論じる対象そのものとは別カテゴリであることは、扱う範囲のもっと広い評論を考えてみれば自明だろう。映画評論は映画ではなく、自動車評論は自動車ではなく、建築評論は建築ではない。
もちろん「評論に見せかけたフィクション」を書くならば話が別で、たとえばスタニスワフ・レムの架空書評集「完全な真空」は評論ではなくフィクションのカテゴリで評価されることになるし、あるいはミステリ論をそれ自体にトリックを仕込んでみせることでミステリとしても成立させる、といった芸当は不可能ではないのかも知れないが、少なくとも「評論として評価する」こととは別の話だ。

SFの賞はSFのみに限られるべきか

これはまあ、結論から述べれば「その賞の取り決めによる」。
作品自体を評価する賞なのか作者を評価するのか、質的な評価なのか影響力への評価なのか。そういった「賞の性格」の中に、対象範囲の規定も含まれる。
たとえば映画賞の中でもっとも有名なアカデミー賞は映画にのみ与えられ映画評論を対象としておらず、映画評論は独立して映画評論家賞などが存在する。一方、文学賞でもたとえば野間文芸賞は小説家および評論家を表彰する。
ただ、「賞の規定がそうなっているのだから『現状では』SF評論が対象に含まれて当然」であることと、「そもそも賞がそのように規定されていることが適切か」はまた別の話ではある。

日本国内に於けるSFの賞としては現在、主に「星雲賞」「日本SF大賞」「センス・オブ・ジェンダー賞」の3賞しかない。うちセンス・オブ・ジェンダー賞は厳密にはSFそのものではなくSFの中で性を取り扱った作品を対象としており、SF全般を対象としているのは2賞だけである。言い換えれば、(冒頭に挙げた一連の文脈でも触れているように)そもそもSFというジャンルが包摂する範囲の広さに比してそれを評価すべき場が極めて限定的というか、確固たる「SF市場」として成立する範囲が狭いのだと考えられる。映画のように市場規模もその評価規模も大きなジャンルと異なり、「作品賞」と「批評賞」を切り分けて成立するだけの幅がないのだ。


また、日本SF大賞では当初より文筆以外の活動についても、「もし、他のジャンル、たとえば映像、漫画、SFアート、あるいは音楽などの分野にその年度においてきわだってすぐれた業績があれば、考慮の対象とする事を妨げません」とあり、実際に科学ものノンフィクションや作家など「SFではない」ものに特別賞を贈ってもいるのだから、評論のみをその範囲から除外すべき理由がない。

あるいは星雲賞日本SF大賞と類似しており一方の特色を強め他方との差別化を図る目的で敢えてそのように転換すべき、という論旨ならば考えられるかも知れないが、しかし実際には星雲賞日本SF大賞はかなり性格の異なる賞である。
これまでに星雲賞48回、日本SF大賞38回の中で両賞の受賞作品が一致したのは

の5作しかなく(うち1作は作品への受賞というより作者への功労賞というべきだ)、従って賞の範囲を敢えて変更すべき理由は見当たらない。
またファンダムの選出である星雲賞ではノンフィクション部門・自由部門はあっても評論が受賞した事例はなく、この点から見ても、日本SF大賞からSF評論を除外すればSF評論をまともに評価できる場がなくなってしまうと言えるだろう。

追記:「SFとしてのSF評論」およびSF評論賞について

このエントリおよび一連の発言について、岡和田氏から言及を戴いた。批評という分野そのものに理解が浅いため追い切れない部分もあるが、私に可能な範囲でまとめるならば、

  • ものごとを突き詰めてゆくと境界自体が揺らぎ、定義は曖昧になってゆく
    • 「SFはフィクションだがSF評論はノンフィクション」と言えるほど明瞭な区分ではない
  • 北野氏は自身も日本SF大賞の選考委員を務めたことがあるにも関わらず評論への理解が浅い

ということになる。
「SF評論もまたSF」とまで言い切れるかどうかはさて措くとしても、いみじくも選考委員たる者がその点に無理解であって良いのかという批判は尤もであろうし、その前提あっての「SF評論もまたSF」発言という背景を踏まえると、我々一般のSF読者が考えるほど軽々に自明なものとして退けて良い議論ではない、とは言えよう。

しかし一方で、これは自身の不明を恥じ入るばかりであるが、日本SF大賞と同じく日本SF作家クラブが選考する「日本SF評論賞」が存在しており、つまり"「作品賞」と「批評賞」を切り分けて成立するだけの幅"はちゃんとあり、そして"日本SF大賞からSF評論を除外すればSF評論をまともに評価できる場がなくなってしまう"わけではなく日本SF作家クラブ自身が別の場でその評価を打ち出していることを踏まえるならば、「日本SF大賞からは」SF評論を除外すべきとの北野氏の私見もまた故なきものとは言えないことになる。
(ただし日本SF評論賞は新人賞であり継続的なSF評論の選考を目的とした賞とは言えず、また現在は休止されているため、実質的にSF評論を評価できる場が他に存在していないという認識もまた正しい)

火星から月へ:アンディ・ウィアーを読み比べる

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 下 (ハヤカワ文庫SF)

オンライン自主掲載から映画化にまで至った超新星のようなデビュー作「火星の人」の作者アンディ・ウィアーの新作「アルテミス」を読み終えた。今度は月面都市の話だ。

最初に評価を伝えておこう:B+、悪くはないが期待を下回る──前作があまりに最高だったので。

正直なところ、前半(今回は最初から上下巻に分かれての刊行なので、上巻ほぼ丸々)は些か退屈だった。主人公の女性がどういう人物でここがどういう場所なのか、それを描くことに序盤は費される。もちろんそれは必要なことなのだけれど、空気がなく重力が弱い月面で生活するためのドームという環境と、地球各国からの干渉が少なく法的拘束の緩い自治都市という社会、敬虔なムスリムである熟練の溶接工を父に持つ奔放な運び屋/密輸業者の娘という異世界を説明するために本題に入るまでに結構な分量が費されてしまう。このあたり、いきなり嵐に遭遇し火星に取り残されるというホットスタートから始まる前作とは対照的だ。
状況が動き始めてからの面白さは充分で、下巻は一気に読み切った。しかし上巻がなかなか進まないので全体評価はどうしても低めになる。

読みにくいのはなにも序盤の展開が遅いからだけではない。「アルテミス」は全体が主人公の一人称視点で書かれているのだが、地の文が頻繁に「読者に向かって語りかけて」きて、その部分と他の部分とで口調が変わるのだ。基本的にはだ・である調なのに、ところどころにです・ます調が混ざってくる。たとえば──

ではどうやって時間をきめているのか?ケニア時間を採用しています。ナイロビで午後だから、アルテミスも午後。

翌朝、目が覚めると、豪華で寝心地のいいベッドのなかだった。
いえいえ、誰ともいっしょじゃありません。エロいことは考えないように。

こういうのが所々に挟まってくる。その上、主人公はわりと口が悪いのだが、その多分スラングな表現についても、どうもピンと来ない。
これらが原文の表現自体の問題なのかそれとも翻訳の問題なのか、私には判別のしようもないのだが、しかし前作でそのような読みにくさを感じた憶えはなかったので、もしかして訳者が変わったのかと思わず調べてしまったぐらいだ。

「火星の人」も主人公の一人称視点だったが、マーク・ワトニーは科学者なので地の文も理知的で読みやすく、文体も安定していた。「アルテミス」では、どうも作者が想定する「頭はいいけど育ちが悪い女の子」のイメージと訳者のそれがうまく噛み合っていないような印象を受ける。どちらが主因なのかはわからないが、それが作品の魅力を若干削いでしまっているように感じられる。

とはいえきちんと考察された物理・化学・工学的描写や、工夫で困難を乗り越えてみせるくだりは流石のアンディ・ウィアー、ついでに「専門外の見落としによるインシデント」までもが健在だ。「完璧な人など居らず完璧な計画などない」のが作者の哲学なのかも知れない。

前半を退屈に感じたなら、「それでも読む価値は充分にある」と申し上げたい。ただ、「初めて読むならまず『火星の人』を」とも。

火星の人

火星の人

女性専用車両について考える

女性専用車両に対する反対運動が度々話題になる。が、何を不服として反対しているのかがイマイチよくわからない。
何が不満で、どうなれば満足なのか。いや、反対側運動なのだから廃止を目的としているのだろうとは思うのだが、「なんのために」廃止したいのかが見えてこないのだ。

女性専用車両とは何なのか

古くは戦前から何度か「ご婦人専用車両」の導入例はあったが、それらは主に過度の混雑から弱者を保護する目的であったのに対し、近年の女性専用車両は(弱者保護の目的もあり、小学生以下の男の子や体の不自由な人とその介助者なども乗れるとアナウンスされているが)明らかに女性の痴漢被害対策という意味がある。

独自調査、痴漢検挙の82%が鉄道内だった! | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 では警視庁からの開示を受けてデータをまとめているが、これを見ると一般に痴漢としてイメージする行為のうち「体に触れる」については8割近くが電車内で発生していることがわかる。男性が(原則として)入らない空間を設けることは、接触性痴漢被害の発生しにくい状況を成立させるための簡便な手段として充分な効果が見込める方法と言えるだろう。
一方、「盗撮」についても駅構内で4割超と高いものの、こちらは階段・エスカレーターなどで狙われることも多いと思われ、単純な対策はなかなか難しい。それでも車両単位で分けると待機列も分かれることになるので、待っている間に盗撮されるようなことは少なくなるかも知れない。
上記のデータによると3年間での電車内被害総数は3262件、1年あたり平均1087件ということになる。
一方、痴漢に関する資料のまとめ - うさうさメモ によると「大規模都府県(東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県、大阪府京都府兵庫県のことだそうだ)警察において電車内の痴漢行為で検挙・送致された者」は1ヶ月のうちに219人にのぼり、7都府県に均等に分かれたとすれば31人ほどが検挙されたことになる。被害者数91人/月に対し31人の加害。
(なお同記事では女性の「被害にあった人数/届け出た人数」には10倍の開きがあるとも)

ともあれ、痴漢対策としての女性専用車両には充分な意義がありそうだ、ということはわかった。

女性専用車両の存在意義が確認されたところで、では反対意見について考えてみよう。
とはいっても私自身が反対派ではなく、反対派を身近に知ってもいないため想像を元に書いている。そのため当事者から見ると「それは違う」という部分もあろうかと思われ、その節はご指摘頂きたい。

男性すべてが犯罪者扱いのようで気分が悪い

女性専用車両は痴漢犯罪の発生を抑えるために男性を一律排除するというやり方を採った。見ようによっては「男性を犯罪者予備軍と見る」とも言える。そりゃ気を悪くもしようというものだ。
だがちょっと考えて欲しい。

  1. 痴漢はほとんど男性である
  2. 痴漢被害者はほとんど女性である
  3. 痴漢する男性と痴漢しない男性を分ける方法はない

という条件下で、痴漢被害を抑えるために取り得る方法は「女性と男性を分ける」以外になく、「男性が気を悪くする」と「女性が被害に遭う」とでどちらが深刻であるかを考えれば、最適解は自ずと明白になるはずだ。
女性専用車両は「男をすべて犯罪者扱いしている」のではなく「男と犯罪者を区別できないので被害者を守る方を優先する」ものに過ぎない。鉄道事業者にとって重要なのは被害を減らすことであって、犯罪者を見付け出すことではないのだ。

男性専用車両も用意されるべき

女性専用があるなら男性専用もあるべき、という平等論。そもそも女性専用車両がなんのために登場したのかを考えていない発言と言える。
女性専用車両は女性を優遇するサービスではなく、被害を抑制するための保護策である。被害が(0とは言わぬとしても対策を要するほどでは)ない男性を満足させるためだけにサービスとして男性専用車両を設けるべき理由がない。

これについては反論として女性から男性への「痴漢冤罪」が挙げられることがあるが、対策を要するほどに件数があるのだろうか。
痴漢冤罪数あるいは冤罪率を明らかにするデータがないのでなんとも言えないが、前述の 痴漢に関する資料のまとめ - うさうさメモ には「裁判で冤罪を主張した事例」は年間200件ほど、実際に無罪となった事例は(痴漢冤罪が話題となった2000年の事例で)8件とある。
同じ資料から大規模都府県の検挙数で考えると、年間2500人ほど(各県で360人程度)が検挙され、うち8%ほど(県あたり30人弱)が事実を争い、そのうち4%ほど(県あたり1人程度)が冤罪と認められたということになる。
都内の年間痴漢被害数が1000を越えるところ、冤罪数が1ぐらい、ということは「痴漢被害抑制のためには女性専用車両を導入するが、痴漢冤罪被害抑制のために男性専用車両を導入しない」という鉄道会社の判断はおよそ理性的であろう。

男は死ぬほどの混雑を我慢しているのに

そもそも通勤ラッシュ時の死ぬような混雑自体が問題なのであって、その責は鉄道事業者よりも同じ時間帯に一斉出勤を求める企業側にあるのではないかと思うが、それはさておき「女性専用車両は快適」なのかどうか。
これについては「女性専用車両の乗車率」自体がデータとして見当らないのではっきりしたことは言えないが、一例として横浜市営地下鉄女性専用車両乗車率についての証言を。
女性専用車両の利用状況ってどんな感じ?[はまれぽ.com]
これによると2012年時点で「現在では区間により多少乗車率に開きはあるものの平均で130%になっています。一般車両のラッシュ時の平均乗車率が125%なので、一般車両よりは女性専用車両のほうが混んでいるという状況」と、大きな差はないものの女性専用車両の方が若干混雑しており、少なくとも「女性専用車両だけが空いていて快適」とは言えないことがわかる。

男性だって乗っていい

「男が女性専用車両に乗ってはならない法的根拠はない」「同じ運賃を払っているのに男だけ乗れないのはおかしい」
これらは典型的な論点ずらしである。一見すると男性の被る不平等を訴えているようにも思えるが、女性専用車両に乗れないことで受ける具体的な不利益については示されない。
実際のところ、真の意図は不利益の是正などではなく「女性専用車両の実質的な無効化」なのだと思われる。気に食わない理由は別にあり、しかしそれをストレートに開陳すつことは憚られるために「不当な運用である」ことを訴え存在を有耶無耶にしてしまいたい、という行動であろう。

なお法的には、女性専用車両の目的を考えれば男性の乗車を拒むことには充分な正当性があり、私人である鉄道事業者の裁量範囲と認められるとの判例もある。
女性専用車両の違法性を否定した事例(消費者問題の判例集)_国民生活センター

また運賃については「同じだけ払っている」ことを根拠に等しい権利を主張するならば逆に子供料金や障害者割引など運賃の割引を受けた人は権利が制限されることになってしまうが、無論そんなことはない。いずれにせよそこは鉄道事業者の裁量範囲であり、「不服があるなら利用するな」ということになる。

悪意

これは当初すっかり失念していた……というか、意義を考える上では完全に想定外だったのだが、どうやら批判などではなく「純然たる悪意に基づく」嫌がらせのケースを想定しなければならないらしい。つまり「女性を/(女性に便宜を図る)事業者を困らせる」こと自体が目的であるというパターン。
上記判例でも、「健常な成人男性も乗車することができる旨をあえて掲示せず」とあり、法的には「女性専用車両には実は男性も乗れる」ことが否定されているわけではない、という辺りを根拠に強行しているようなのだが、しかし嫌がらせ目的である時点で営業妨害には問えるわけで……
普通に考えて、悪意に基づいて行動することに賛意が得られるとは思えないのだが、どうも彼らの中では「男性も乗れる」ことを周知すれば当然みんな乗るようになり女性専用は有名無実化するのだ、という理論があるらしい。

暴力被害の男女比を考える

「女性だけの街」という発言が話題になった。賛否はともかく、女性が日常的に「男性からの暴力被害を恐れている」ことを浮き彫りにするものではあったと言えよう。
これに対し、法務省の発表している平成29年版 犯罪白書などを元に「男性の方が倍ぐらい被害に遭いやすく、女性の危機感は幻想」といった反論が見られたのだが、些か論旨が乱暴に過ぎるように感じられたため、少し検証してみることにした。

暴力被害の男女比を計算する

犯罪被害の男女比はこのようになっている。

実際の犯罪発生率それ自体ではなく体感的な「危険性」について考える場合、重要なのは「危害を伴うかどうか」だろう。即ち、この表のうち「窃盗」「詐欺」「横領」に関しては主に金銭被害を生じせしめるものではあっても直接的な危害を生じせしめるものではなく、「危険性」の面からは無視して良いと考えられる。
残る「殺人」「強盗」「強姦」「暴行」「傷害」「脅迫」「恐喝」「強制わいせつ」「略取誘拐・人身売買」について、まずは男女比を見てゆこう。
暴行と傷害はどちらも暴力でもって物理的に相手に攻撃を加えんとした場合であるが、法的には「暴行」はさしたるダメージを与えなかったもの、「傷害」はダメージを与えたものを指すそうだ。
脅迫と恐喝はどちらも言葉でもって精神的に相手を脅し強要した場合であるが、法的には「脅迫」は本人や親族等に対する危害を予期させるもの、「恐喝」は金銭を脅し取ったものを指すらしい。
強制わいせつと強姦は、法律上は強姦が女性器に対する行為のみに限定されているため、被害者が男性の場合や女性器以外への性的強要などは強制わいせつということになる。
これらは分ける意義が薄いため、ここでは合算して示した。

犯罪種別 男件数 女件数 男比率 女比率
殺人 513 376 58% 42%
強盗 1314 797 62% 38%
暴行・傷害 34240 21938 61% 39%
脅迫・恐喝 3596 2182 62% 38%
強姦・強制わいせつ 247 6930 3% 97%
誘拐・人身売買 40 188 18% 82%
合計 39950 32411 55% 45%

こうして見ると、個別の割合としては性的被害および誘拐・人身売買については圧倒的に女性の被害が多く、それ以外の暴力的被害ではおおよそ男女比6:4程度となっていることがわかる。
どうだろうか。総数としてはたしかに「女性の方が危険性は少ない」と言えるのだが、しかしそれほど大きく差が出ているわけでもない。

この差を生じる要因は複数考えられるが、単純な性差あるいは肉体的な差のみでは語れないように思われる。
たとえば暴力的行為が「自分より強そうな相手よりも弱そうな相手を狙う」といった傾向がある場合、恐らくは男性より女性の方が狙われやすくなるだろうと考えられるが、実際には男性の方が多い。また強盗のような、特定人物を狙った行為ではない偶発的被害であってもやはり男性の方が多い。これはつまり、「男性の方が外に身を置く時間が長い」ために犯罪被害遭遇率に差が生じているのではないだろうか。

たとえば内閣府男女共同参画局による統計資料を見ると、就業率は男性の方が1.5倍前後多いことがわかる。これは男女の被害が(性的被害以外では)6:4と男性が1.5倍ほど多くなることと凡そ符合しているように思われる。

つまり、ほとんどの暴力的被害については「就業割合の差などから男性の方が女性より外出傾向が高いために結果として暴力的被害に遭遇する可能性が高い」だけであって実際の被害率には大きな差がなく、一方で性的被害および誘拐・人身売買では明白に女性のみが突出して高い、という事実を総合するに、「実際に女性の方が危険性が高い」のではないかと考えられる。

加害の男女比を見る

法務省の統計には加害者の男女比も掲載されている。これを見ると、男性の犯罪は(上で暴力的危害ではないとして除外した)「窃盗」「詐欺」「横領」で50%弱、残りの、つまりおおよそ暴力的危害を加えたと考えられるものが50%強とほぼ半々となるのに対し、女性の場合は84%が暴力的危害ではない犯罪であり、暴力的な加害は16%程度に留まる。単純な割合で言えば男性の方が女性よりも3倍以上、暴力を振るうということになる。

まあこれは比率であって絶対数ではないのだが、しかし上述の就労割合の差による「他人との接点」の数的差を考えるに、その絶対数的差はむしろ3:1×3:2=9:2ほどにまで拡大すると考えるべきではないだろうか。更に言えば男女の人口比はおよそ105:100と若干ながら男性の方が多く、それらを総合的に勘案すると「男性は女性の4〜5倍ほど暴力加害が多い」ことになる。

男女の被害件数比

今度はグラフを少し変えて、男女それぞれに「被害総数に対する各被害の比」を見てみよう。

男性

犯罪種別 総数 比率
殺人 513 1%
強盗 1314 3%
暴行・傷害 34240 86%
脅迫・恐喝 3596 9%
強姦・強制わいせつ 247 1%
誘拐・人身売買 40 0%
合計 39950 100%

女性

犯罪種別 総数 比率
殺人 376 1%
強盗 797 2%
暴行・傷害 21938 68%
脅迫・恐喝 2182 7%
強姦・強制わいせつ 6930 21%
誘拐・人身売買 188 1%
合計 32411 100%

男性は圧倒的に暴行・傷害が多く、また脅迫・恐喝の比率がやや高い。
対して女性は、男性では合計1%しかなかった強姦・強制わいせつと誘拐・人身売買を合わせて22%にも達している。強姦・強制わいせつがほぼ男性による加害であろうことは言うまでもない。
仮に強姦・強制わいせつを除いた暴力加害が男女分け隔てなく均等に分布しているとすれば、女性に対する男性からの加害割合は更に偏る。

まず、男性からの加害と女性からの加害をパーセンテージで見ると、前項「加害の男女比」での仮定より82%:18%程度となる。
被害の男女比55%:45%より、男女に均等分布とすれば

加害\被害 男性 女性
男性 45.1% 36.9%
女性 9.9% 8.1%

となる。
しかし女性に対する被害割合である45%のうち強姦・強制わいせつの21%、つまり被害全数の約10%は男性のみからの加害と見做せるため、その分を全体から抜いて割合を計算し直さねばならない。均等分布であれば男女5%づつであったはずの分が0:10%となることで男女被害割合も5%づつ増減が生じてしまうため、帳尻を合わせる必要がある:男→女が10%増加したということは逆に女→男を10%戻さねばならないはずだ。
つまり均等に割り振るべき分は男性加害72%:女性加害8%、それに男→女10%と女→男10%を加えると、割合は次のように変化する。

加害\被害 男性 女性
男性 39.6% 42.4%
女性 14.4% 3.6%

1%ほどの丸め誤差が生じたが、だいたいこれぐらいの比率だ。
男性被害では男女比2.75:1であるのに対し、女性被害は11.8:1にも達しており、「女性が男性を警戒する」理由を裏付けている。