SF作家、北野勇作氏が「SF評論はSF大賞の対象として相応しくない」旨の発言をし、
まっとうなSF評論として優れていても、それは評論であってSFではないですからね。SF評論大賞ならそれで文句ないけど、SF大賞なら、評論なのにSFだ、という要素は必要だと思いますね。まあそれは私個人の考えですが。
— 北野勇作 『水から水まで』発売中! (@yuusakukitano) 2018年3月5日
それにSF評論家、岡和田晃氏が「SF評論はSFでもあり評論でもある」という反論を行なった。
「まっとうなSF評論として優れていても、評論であってSFではない」というのは、どういう定義ですか? この前提、矛盾というか、理論的に成立しえないと思いますよ。もう少し、精緻に考えないと。「SF評論」と呼ばれる段階で、そもそも「SF」でも「評論」でもありますよね。 https://t.co/ZCbbaymXHK
— 岡和田晃_新刊『ベア・カルトの地下墓地』 (@orionaveugle) 2018年3月6日
この一連の流れはそもそもが「SF界はSFゲームを正当に評価していない」という趣旨の記事がまずあり(それに対しては「SFマガジン等でもSFゲームを取り上げてるし、その記事内で『SFとして評価されるべきゲーム』として取り上げているそのタイトルについてはSF出版社からSF作家によるノヴェライズまで出てますよね」といった反論が為された上で)、「ゲームとは別に、SF評論がSF賞を(ほとんど)獲れないことへの批判もある」旨の発言を受けてのことであるのだが、
「評論が日本SF大賞を獲れないのは評論が評価されてないから」って主張もゲームの話とは別にあって、やっぱ全部を派を満足させるのは無理があるでしょう。みんな無茶いいすぎ。
— 須藤玲司 (@LazyWorkz) 2018年2月28日
だったらベストドレッサー賞を眼鏡常用女性が獲ってないのはめがねっこの不当評価ですよ!
そこを踏まえて批判を試みたい。
この問題は2つの主題から成る:ひとつは北野氏の発言による「SF賞の受賞対象にSFそのものではないSF評論を含めるべきか否か」、次にその反論として為された岡和田氏の発言に基づく「SF評論はSFか」。
SF評論はSFか
これは「SF」の定義からしても、他の評論に照らしても、単純に「違う」と言ってよいと考えられる。
ご存知の通り、SFとは「Science Fiction」である。あくまでフィクションであることがSFの要点であり、科学をテーマに扱っていてもノンフィクションはSFではない。SF評論はフィクションを論じるが、それ自体がフィクションではないため、SFとは言えない。
評論が論じる対象そのものとは別カテゴリであることは、扱う範囲のもっと広い評論を考えてみれば自明だろう。映画評論は映画ではなく、自動車評論は自動車ではなく、建築評論は建築ではない。
もちろん「評論に見せかけたフィクション」を書くならば話が別で、たとえばスタニスワフ・レムの架空書評集「完全な真空」は評論ではなくフィクションのカテゴリで評価されることになるし、あるいはミステリ論をそれ自体にトリックを仕込んでみせることでミステリとしても成立させる、といった芸当は不可能ではないのかも知れないが、少なくとも「評論として評価する」こととは別の話だ。
SFの賞はSFのみに限られるべきか
これはまあ、結論から述べれば「その賞の取り決めによる」。
作品自体を評価する賞なのか作者を評価するのか、質的な評価なのか影響力への評価なのか。そういった「賞の性格」の中に、対象範囲の規定も含まれる。
たとえば映画賞の中でもっとも有名なアカデミー賞は映画にのみ与えられ映画評論を対象としておらず、映画評論は独立して映画評論家賞などが存在する。一方、文学賞でもたとえば野間文芸賞は小説家および評論家を表彰する。
ただ、「賞の規定がそうなっているのだから『現状では』SF評論が対象に含まれて当然」であることと、「そもそも賞がそのように規定されていることが適切か」はまた別の話ではある。
日本国内に於けるSFの賞としては現在、主に「星雲賞」「日本SF大賞」「センス・オブ・ジェンダー賞」の3賞しかない。うちセンス・オブ・ジェンダー賞は厳密にはSFそのものではなくSFの中で性を取り扱った作品を対象としており、SF全般を対象としているのは2賞だけである。言い換えれば、(冒頭に挙げた一連の文脈でも触れているように)そもそもSFというジャンルが包摂する範囲の広さに比してそれを評価すべき場が極めて限定的というか、確固たる「SF市場」として成立する範囲が狭いのだと考えられる。映画のように市場規模もその評価規模も大きなジャンルと異なり、「作品賞」と「批評賞」を切り分けて成立するだけの幅がないのだ。
また、日本SF大賞では当初より文筆以外の活動についても、「もし、他のジャンル、たとえば映像、漫画、SFアート、あるいは音楽などの分野にその年度においてきわだってすぐれた業績があれば、考慮の対象とする事を妨げません」とあり、実際に科学ものノンフィクションや作家など「SFではない」ものに特別賞を贈ってもいるのだから、評論のみをその範囲から除外すべき理由がない。
あるいは星雲賞が日本SF大賞と類似しており一方の特色を強め他方との差別化を図る目的で敢えてそのように転換すべき、という論旨ならば考えられるかも知れないが、しかし実際には星雲賞と日本SF大賞はかなり性格の異なる賞である。
これまでに星雲賞48回、日本SF大賞38回の中で両賞の受賞作品が一致したのは
- 井上ひさし 『吉里吉里人』(1982年星雲賞、1981年SF大賞)
- 夢枕獏 『上弦の月を喰べる獅子』(1990年星雲賞、1989年SF大賞)
- 飛浩隆 『象られた力』(2005年星雲賞、2005年SF大賞)
- 伊藤計劃 『ハーモニー』(2009年星雲賞、2009年SF大賞)
- 栗本薫 『グイン・サーガ』(2010年星雲賞、2009年SF大賞特別賞)
の5作しかなく(うち1作は作品への受賞というより作者への功労賞というべきだ)、従って賞の範囲を敢えて変更すべき理由は見当たらない。
またファンダムの選出である星雲賞ではノンフィクション部門・自由部門はあっても評論が受賞した事例はなく、この点から見ても、日本SF大賞からSF評論を除外すればSF評論をまともに評価できる場がなくなってしまうと言えるだろう。
追記:「SFとしてのSF評論」およびSF評論賞について
このエントリおよび一連の発言について、岡和田氏から言及を戴いた。批評という分野そのものに理解が浅いため追い切れない部分もあるが、私に可能な範囲でまとめるならば、
- ものごとを突き詰めてゆくと境界自体が揺らぎ、定義は曖昧になってゆく
- 「SFはフィクションだがSF評論はノンフィクション」と言えるほど明瞭な区分ではない
- 北野氏は自身も日本SF大賞の選考委員を務めたことがあるにも関わらず評論への理解が浅い
ということになる。
「SF評論もまたSF」とまで言い切れるかどうかはさて措くとしても、いみじくも選考委員たる者がその点に無理解であって良いのかという批判は尤もであろうし、その前提あっての「SF評論もまたSF」発言という背景を踏まえると、我々一般のSF読者が考えるほど軽々に自明なものとして退けて良い議論ではない、とは言えよう。
しかし一方で、これは自身の不明を恥じ入るばかりであるが、日本SF大賞と同じく日本SF作家クラブが選考する「日本SF評論賞」が存在しており、つまり"「作品賞」と「批評賞」を切り分けて成立するだけの幅"はちゃんとあり、そして"日本SF大賞からSF評論を除外すればSF評論をまともに評価できる場がなくなってしまう"わけではなく日本SF作家クラブ自身が別の場でその評価を打ち出していることを踏まえるならば、「日本SF大賞からは」SF評論を除外すべきとの北野氏の私見もまた故なきものとは言えないことになる。
(ただし日本SF評論賞は新人賞であり継続的なSF評論の選考を目的とした賞とは言えず、また現在は休止されているため、実質的にSF評論を評価できる場が他に存在していないという認識もまた正しい)