http://d.hatena.ne.jp/hkt_o/20041210付近の著作権の話を読んで思ったことを色々書いてみる。
著作権を含めた知的財産権には、知的財産という名称が表すように資本主義的性格が強く設定されている。言い換えれば「権利を持つものだけが独占的に利益を得ることができる」ということだ。
利益を得ない著作物についても同様に権利は保障されるが、これは利益と無関係であるというよりも「将来的に利益を得る可能性」を保障していると取れる。
法的に著作権が保護されるようになった最初の存在は書物であるが、これは印刷技術成立以降のこと。それまでは書物とは原則として手作りの一点ものであり、情報を広める為に写本されるのが一般的であった。むしろ多く写本されるということが原本の価値でもあったろう。
しかしグーテンベルク以降、書物は最初から複数制作されるようになった。そうすると版元の販売利益保護が重要視され、複製が禁じられるようになる。この時点で、法律で保護されているものは著作者でもなければ著作物そのものでもなく、その複製権であり、ひいてはそこから得られるべき利益であったと言える。
その後、著作物とその複製を独占する権利から著作者個人のオリジナリティーそのものの保護へと保護内容は移り変わったが、未だに利益をベースとする観念が抜け切れていないようだ。
実際に著作者が守るべきは何か。原点に立ち戻れば、それは利益ではなく名誉である。その観点からは、単純な複製には何ら問題などない。むしろ世界中に自らの著作物が敷衍し誰もがそれを評価しているならば、それは最高の栄誉と言えよう。創造行為により経済的見返りを(定量的に)期待することはできないが、もしかしたらドネーションを基礎とする新しい経済形態が生まれるかもしれない。
コストがかからなくなることで、複製数が正当な評価基準とならなくなる可能性は否定できない。かつての写本にはかなりの人的コストが費やされており、それが故に「手間をかけてまで複写するほどの価値」という評価基準たり得たわけだが、簡単にコピーできるものにその価値があるのかどうか。しかしこれに関しては割合楽観視している。
ごく一部の著作物だけが無償で流通するならば、その事自体に注目が集まり、また相対的な利益感情により集中的にコピーされると考えられる。この時点でコピー数を単純に評価基準とすることはできない。
だがすべての著作物が自由に複製可能であれば、その中から探し出され浮かび上がってきたという事自体が一つの価値となるだろう。
さて、著作権に於けるもう一つの問題は「オリジナリティーの証明」である。盗作は他人に与えられるべき名誉を盗む行為であり有罪に疑念の余地はないが、まったく存在を知らなかった作品との類似はどう処理されるべきか。
この問題は考えると長くなるのでまた次回。