著作権問題:条件付き賛成


文化の発展に真に重要なのは「盗用」の解消だ。
この一文には賛意を表する。ただし、多分元発言の意図とは反対の意味で。


現行法上、著作物の無認可流用は「盗用」となる。MADのような複数著作物混合は勿論、パロディや引用すらそのように見做されかねない。
今更指摘するまでもないが、元々著作物というのは他人のアイディアに触発され流用して発展してゆくものだ。時に模倣し、時に部品として取り込んで、そうやって形作られてゆく。
あなたがプログラマなら思い起こして頂きたい。コードの多くを他のソースからの継ぎ接ぎで作りはしないか?
あなたが文筆家なら思い起こして頂きたい。他人の書いた文に影響を受け、その骨子や言い回しを取り込んだことはないか?
あなたが音楽家なら思い起こして頂きたい。既存のフレーズをモティーフとして作曲した経験はないか?
あなたが画家なら思い起こして頂きたい。その構図、その色使い、その技法は過去の誰かの作品に似てはいないか?
別段不思議なことではないし、悪いことでもない。逆に1から完全にオリジナルで生み出されるものなど存在しないのだ。みな何らかの形で、他人の作品に影響を受けるし、影響を与える。時に間接的に、時に直接的に。


「盗用」というのは恣意的な言葉だ。何を以て盗用とするのか?
真に「著作物の盗用」と言い切れるのは、他人の著作物を自らの著作であるかのように偽る場合ぐらいのものだ。それ意外のケースでは、状況次第で判断するしかない。誰が?無論、著作物を鑑賞する立場にいる全員だ。
何度も主張するように、突き詰めれば著作権とは著作者の名誉を守るものだ。独占的に利用する権利やその利益なんてのは、それに付随するおまけに過ぎない。ならば、栄誉を与えるべき立場にいる人間ひとりひとりが、その栄誉を誰に贈るべきかを決めれば良い。
盗用の解消が文化の発展に重要であることには同意する。が、それは「厳しく取り締まって/強く啓蒙して盗用行為を撲滅する」ではなく、「盗用の認定基準を緩和する」という形であるべきだ。


結果として唐沢に盗用の謗りが与えられ、ニコニコに蔓延するMADがそうならないのは、「厭儲」以前に唐沢の行為が(結果的なものであるにせよ)原文著作者に与えられるべき名誉を奪っているからで、MADの存在が何ら原作の名誉を傷つけないからだ*1
厭儲を批判するのと同じスタンスで、著作権問題から隣接権絡みの利益問題は切り離すべきだ。盗用問題としては、いずれも無関係な話である。また、「現行法がそうあるのだから違法」という言い方も意味がない。ここで論じているのは適法性ではなく理念の問題だから。

*1:仮に唐沢のそれが無料で頒布される形態を取り、ニコニコのMAD動画からその制作者が利益を得ているとしてもこの世間評が揺るがなかったかどうかには些か疑念もあり、そのことをして厭儲」あるいは「ダブルスタンダード」との批判は致し方なしと思う