「個人が一生贅沢に暮らす」のに幾ら必要か考える。

仮に一生かかっても使い切れないほどの資産があるなら、自分の使う分さえ保証されれば他人が残りを勝手に使おうと気にならないんじゃないか、と書いたところで、さて一体それはどれほどの金額だろうか、と気になったので計算してみる。
どんなものでも上を見るときりがないもので、やろうと思えばいくらでも使えるような気もするのだが、あくまで不要なものに過剰な金をかけるのではなく、一般庶民の贅沢、程度を想定する。


一生涯にどれほど金をかけているかというのは直感的に判り難いものだ。とりわけ自分で払っていない部分は。まずは生誕から始めよう。
出産には、大体50万程度の費用がかかる(半分以上は返却されるが)。それ以外に育児に必要な色々を買い揃える必要があるのだが、そのあたりは別に見積もるとしよう。
さて、生まれてから死ぬまでにどうしても必要なものと言えば、衣食住だ。
衣、即ち衣服にかける金額は上を見るときりがないのだが、まあ1着5万もあれば大抵のものはそれなりに質の良いものが揃うだろう。それぞれのシーズンに上下10着づつ、計80着用意するとして400万。それに上着だの水着だの、諸々のオプションを付けて年間500万としよう。毎年買い替えるとしても100年で5億円。
食は1食あたり1万円かけるとして1日5食(朝昼晩+おやつ2回)×365.25日×100年-1日(除閏年)で……18億2620万円。
住は収納すべき物量との兼ね合いで考える必要があるが、まあ土地込み10億円あれば困ることはあまりないのではないか。
さて、最後(ではないのだが)は死の値段。まあ葬儀なんて死んだ本人にとっては贅沢である理由もないし、墓だって巨大墳墓に入る理由もなさそうなものだが、終末医療なんかも込みで1億ということにしておこうか。ここまで合計で約25億円。


次に趣味の値段。例えば読書を飽きるほどし続けるとする。本1冊の価格が平均2000円として、1冊読むのに2時間、1日の半分を読書のみで過ごしたとして1日6冊。これを90年以上続けたとして約20万冊、4億円。これが生涯に読める本の量だ。
映画でもほぼ同量。価格の相場がよく判らないが、5000円としても10億円で済む。
音楽はどうか。CDならアルバム1枚の平均演奏時間は45分ほど、睡眠時以外ずっと新しい音楽を聞き続けるとしても1日16枚なので52万6000枚、16億円程度。
ゲームなら単価もずっと高いがプレイ時間も長いので、5000万もあれば収まってしまう。
これらを合計して30億円ほど。


贅沢な生活の人件費はどうか。身の周りの世話に一人、料理に一人、運転に一人、執事に一人雇うとして、一人あたり月50万ほどかかるとすれば生涯で24億円。


ここまでの総額で80億円もあれば収まってしまう。こういう不労所得にどの程度の税金が課されていくら目減りするか知らないのだが、仮に1/10しか使えないのだとしても800億円あれば足りる。もっとお金のかかりそうな、たとえば車コレクションのような趣味があっても、精々1000億円を越えないだろう。
無論、事業に投資するようなことを始めればもっと掛かるのだが、原則としてそこはリターンのある領域なので考慮しない。

生きてゆくのに必要なこと

どうも先日の「働かずに食べてゆける社会」関連のエントリに対するブクマコメントなどの反応を見る限り、人は労働せずに食べてゆくことを禁忌と見做しているようだ。
皆、そんなに働きたいのだろうか。


我々は「働かなくても生きていける社会」で生きていけるほど慎ましくなれるのだろうか?残りの99人は「ごくつぶし」であることを従容するのだろうか?そして選ばれた1人は社会を食わせ続けることに飽きずにいられるのだろうか?


誰かに必要とされずとも生きていけるほど、人「間」は強く鈍くあれるものなのだろうか?

  • 人件費がタダになっても食い物や石油は有限。その有限物をどう分配する?と考えた時にこの話は簡単に破綻すると思うのだけど。仕事で得ているのは貨幣ではなく「有限物を分けてもらえる権利」と考えてみる。
  • ああ、家畜人ヤプーの世界ね。
  • 全般的に甘すぎ。thereisnofreelunch.タダより高いものはない。タダにはそれなりに理由がある。働く価値がなくなるなんてトンデモナイ!でもトンデモって変に説得力があるから広まるんだよなあ
  • これのどこが間違っているかちゃんと反論できないと、世の中に騙されるっていうことかな。
  • もし,少数精鋭の労働者だけが働く時代になったら,彼らは何を求めて働くのだろう.働かない者は,何を求めて生きるのだろう.

  • 個人的にはこっちのほうが納得してしまった
  • そのとおり。
  • "アンカテ"の嘘臭いエントリに対する反論。説得力はこちらが上。まじめに働いて働かないニートに富を分配するなんてイヤだわ。
  • こっちのほうが納得。てか当たり前。コメはどんな有能な人間でも年に1回しか収穫出来ない。そういう物理的制約があるわけで

今のところ、働く目的は「生きてゆくため」だ。衣食住を不足なく賄うためには働かざるを得ないようになっているから働く。しかし実際にはそれほど多くの労働力が必要とされているわけではなく、ほとんどの企業は半ば以上福祉として、無能な社員も雇って労働に見合わぬ対価を払っている。
既に社会は"まじめに働いて働かないニートに富を分配"しているし、そうなった理由は彼らが真面目に働こうとしないからではなく、そんなに仕事がないからだ。
今のところ食料生産の効率は劇的な変化を見せていないから、その方面では今もそれなりに労働力が必要とされているが、それでも大陸の平原では機械によって広大な面積を一人で担当できているし、将来的にはもっと工業的に処理されてゆくだろう。いずれ食料の合成だって不可能ではあるまい。
エネルギーにしたところで効率の良い新方式が得られれば事情は変わってくる。石油燃料から原子力へ、原子力から更なる新方式-----例えば核融合へ。


ところで働く必要のなくなった人は何をするのだろうか。大半の人はただ遊んで暮らすのかも知れない。けれども、それでは飽き足らぬ人々が必ずいる。今や衣食住の不足はない、けれどもそれ以外ではまだ不足がある。自分の理想と異なっていることの不満。そうした人々は自主的に、その問題を解決し始める。
たとえば満足できる作品がない、ならば自分で作ろう。今の技術はもっと改良できるはずだ、なら自分が。
衣食住が保証されるが故の自主的な進歩。自らの需要を満たすためだけの労働。それこそが、労働の本来の姿だ。
得られるものは自身の満足と、精々周囲からのちょっとした栄誉のみ。それで充分ではないか。
全員がそうなれるものかどうかは知らないが、少なくとも私は、"誰かに必要とされずとも生きていける"と思う。


すべての労働が消滅することはないだろう。どうしても必要な立場というものは残る。けれどもそれはある種の名誉を伴うものになり、需要を供給が下回る-----誰も働き手がいない、ということにはなりそうにない。

個人を中心とした世界の集合

世界は自分を中心に回っている。
自分の認識できる範囲こそが世界であり、認識できないものは存在しない。たとえば行ったこともないのにアメリカという国が存在しているのは、自分がその国についての情報を知っているからだ。
しかし、と君は言う。しかし、情報は認識の外からもたらされるではないか。
然り。情報は突如として認識の外からもたらされる。つまり「存在しない」ところから存在が送られてくることが有り得る。それをどう説明すれば良いか。
実は認識の外から来る情報も、まったく認識できないところから唐突に現れるのではなく、認識済みの存在を通じて送られるのだ。


私の世界は私を中心に回っているが、君の世界は君を中心に回る。その周囲にも沢山の世界が存在し、部分的に重なっている。認識できないものは存在しないのだから、誰にも認識されず自分しかいない世界では、自分もまた存在しなくなる。
私の世界には君の世界にないものが存在しているし、逆もまた然り。外からもたらされる新たな存在とは、そうした「自分には認識できていないが自分の認識している誰かは認識している」ものだ。
沢山の世界が連なって、ひとつの大きな世界を形成している。多重の認識により確たる存在として顕現する「世界」の上にだけ、我々は存在できる。


これが、世界を形作る相互認識保証による存在継続のシステムである。

考える前にタイプせよ

何か思い付いたことは、なるべくその場で書き始めることにしている。結論は書きながら纏める(纏め切れないことも多いが)。
当然ながら文としての完成度は低いが、それは気にしない。必要なら後から書き足せば良いし、それに書いておくことで誰かがより良いものを書いてくれるかも知れない。雑なものでも、ゼロよりは良い結果に繋がるだろう。
先日のエントリid:nekoprotocol氏からブックマークコメントを頂いた。

ネタにしたい素材の宝庫文章。これでSFを一本(略

光栄の極みだ。これで本当に、この拙文を元に誰かが何か書いてくれたりしたらもう言うことはない。


御自分の作品を他人に利用されたくない方もいらっしゃるようだが、少なくとも私は自分の作ったものが他人に利用されること、他人に影響を与えて新たな作品として結実することこそを最大の栄誉と捉えている。