真水のつくりかた

いつも思うのだが、海に面しているなら海水蒸留でなんとか真水確保できないものだろうか。
まあ今から専用施設建設するより手持ちの施設でなんとか、ってことなんだろうけど、正直それで足りるのかどうか疑問が。

汝利益を以て信仰するなかれ、御心の理解能わざれば

キリスト教的神学の行き着く先は「神を理解してはならない/ただ在るがままに受け入れよ」ということになるようだ。まあこれはこれで正しい信仰のありかただろう……というか「善き神だから」信じるというのは言い方を変えれば「利益があるから」信じるということで、そういうGive&Takeは純粋な信仰としては適切でなく、「何があろうと信じる」のが正しいということか。狂信的でもあるが。
山本弘に拠れば*1ヨブ記で語られる神の非情な仕打ちとその顛末は誤訳だということだが、神学的にはむしろあの結末が適切ということかも知れない。

来世利益の自殺防止機構

宗教には大雑把に分類して現世利益型と来世利益型がある*1
現世利益型は自分自身が利益を確認可能な確実性の故に人気が高いが、同時に利益のないことも確認できてしまうため長期的な加入が見込めない弱点がある。
対して来世利益型はやや敷居が高いものの、生涯信仰が保証される利点がある。但しその特性上、そのままでは安易な自殺による来世への移行を防ぐことができず、信者数は減少する一方である。よって、何らかの自殺防止機構を組込まねばならない。


「信じる者は救われる」型布教モデルの仏教では、主に現世での苦行を担保とした来世利益保証型を取る。これは現世で長く苦しむほどに来世での幸福が上積みされるシステムで、苦痛を期待に変換する役割を担う。この方式では同時に、現世での善行を奨励し上積み保証することでモラルを維持する意味も持っている。
仏教とて抑圧の歴史を持たぬではないが、世界宗教にしては穏やかな方だ。


キリスト教系列も来世利益の変種(天国保証と救世主復活時の再生保証)だが、こちらは自殺を罪と位置付けることで抑止するシステムだ。即ち自死した者は天国保証も再生保証も受けられないとする但し書きによってこれを禁止するもので、恐怖による抑圧を利用している。布教モデルとしても「信じぬ者は地獄逝き」型であり、恐怖利用の点では徹底したものだ。FUDモデルの先駆者と言える。


ところでFUD構造を持つキリスト教が世界一の宗教となり、FUDを積極的に活用したマイクロソフトが世界的シェアを握るというのは面白いもので、FUDという宣伝手法の優位性を物語っているようでもある。話が逸れたが。

*1:利益無保証型も存在し得るが信仰の獲得は困難だろう。そうした宗教の存在を寡聞にして知らない

OOoとAquaSKKの同居問題

OpenOffice.orgAquaSKKオープンソースでありながら非常に使い勝手の良いソフトウェアで愛用しているが、大変残念ながら両者は折り合いが悪い。OOo-Calcで日本語を入力しようとしたとき、しばしばアイウエオが英字で入力されたり、変換したものが入力されずに消えたりする。
AquaSKK導入以前にはそのような問題は起きていなかったような気がするのだがはっきりしない。解決法も(OOoでの作業時のみことえりに戻す以外で)見出していない。今のところはテキストエディタを立ち上げて入力、コピー&ペーストで乗り切っている。

たほいや倶楽部

最後に出題したのは、ええと……自分で出題したのだと2006年2月?もう1年前か。
他の方による出題も4月が最後。実に10ヶ月ぶりのたほいや倶楽部開催である。

ここを御覧の方で、たほいやを御存知ない方のために

たほいや」とは、言葉の意味をもっともらしくでっち上げて他人を騙す遊びです。元は英国の「Fictionaly」というゲームだったものを日本に持ち込み、広辞苑を使った遊びとして整備したものが始まりのようで、フジテレビの深夜番組として知られました。

  1. まず、誰かが辞書に載っている言葉のうち、意味の推測が困難なものを選んで出題します。
  2. 他のプレイヤーはそれを見ていかにも辞書に掲載されていそうな解説を考え、出題者に渡します。
  3. 嘘が出揃ったところで出題者は正解と嘘を混ぜて公開し、それぞれのプレイヤーが正解を当てます。


本来ならば手持ちのポイントを賭け、正解なら出題者から貰う/騙されたら騙した相手に払う、というゲームなのですが、はてな内ではゲーム用ポイントの管理が困難*1なのでそれは無視しています。
また、嘘をバレないように出題者に届ける方法として、ポイント送信時メッセージまたは(目立たぬように)過去記事のコメント欄に書いて削除する(設定してあれば本人にメールが届く)という方法で通信しています。


嘘吐きとしては多くの人を騙せる嘘を考えること、正解当てとしては嘘の中から真実を見抜くこと、出題者としては嘘に紛れるような嘘っぽい正解を探すことを楽しむ遊びです。
嘘吐きが多数集まるほど面白くなりますが、荷が重いという方は是非正解当てだけでも参加してみて下さい。

*1:はてなポイントを使ってのゲームも考えましたが、金銭価値のあるものを賭けるのも野暮なので実施せず、出題者の意志で最多騙し者や正解者にプレゼントしたりしなかったり

人は労働から解放され得るか

無産主義者を自認する私としては、人は働かずして生活できるようになるべきだと思っている。そしてessa氏のヴィジョンはその方向性だ。対してyuyu99氏は否定的な見解を述べる。
私の見たところ、yuyu99氏は「労働による対価」の概念と「パイ全体の増量」という因習から脱することができずにいるようだ。

僕が夢見るひとつのよい社会とはどんなものか。それは、労働があまりできない人の生産性を、労働ができる人の協力によってできるだけ引き上げるような社会である。そうすれば、全体のパイが増える。そして、労働ができる人に協力的になってもらうためには、協力するときのほうが、協力しないときよりも自分の利益が高まる工夫がされなければならない。協力したがために、自分の能力を磨けないで、賃金が上昇しないといったようでは、協力する気が起こらない。

パイは無限に増殖しない。未開拓の市場がある場合、それを開拓し始めた当初は潜在需要を満たし切っていないから飛躍的な上昇を見せるが、まもなくシェア合計は一定値を保ち、同業他社との食い合いに転じる。
需要が頭打ちになれば、生産性をいくら高めても売れ行きは鈍い。余剰在庫は単価を下げ、それによりシェアがちょっとだけ変化するが、安価であることに見出される価値は限定的だ。だから、全体の生産性の引き上げは単に一人あたりの仕事量の低下、もしくは就業人数の削減に繋がるだけである。
つまり、大勢が働かない未来だ。

AがBに「宝をとってきて。そして少しわけて。」と頼んだとして、Bは宝をとりに行くか?このときの利得を表にして、宝の利得を10として、取りに行く苦労の利得を−2としよう。そして、宝が見つかった場合、BはAに3分けるとしよう。


この状況ならば、絶対にBは、Aに分けないという選択をする。そっちのほうが得だからだ。何もしないものに宝を分ける義務は、Bにはない。Aに分けようと思う動機に乏しい。あなたが好きな彼女や家族に、お金を使ってもよいと思えるのは、愛を対価として受け取っているからだ。対価を払ってくれないものに、ただで分け与えることは期待できない。もし、分け与える精神を強要するならば、それは抑圧的な社会であって、住みやすい社会ではない。

今までならばそうだったろうし、これからも当分はそうだろう。けれど、実際のところ「一生かかっても使い切れないもの」を持っているときに、それをケチって一人で囲うことにどんな意味があろうか。自分が満足ゆくだけ潤沢に使えるなら、それ以外の分は誰が使おうと構わない、そう考えることは不自然ではない。
問題は、企業というのもが原則として貪欲だということだ。企業は常に金を求め、ちょっとでも余分に儲けられる見込みがあればその為に大金を使う。従って「使い切れない」という状態が発生し難い。
だがGoogleはその転換をやってのけた。本質的に、彼らは考え方が企業のそれでない。だから儲けより楽しさを優先できる。彼らが金を集めるのは単に楽しさを維持するためであり、それが保証されるならば別に対価など必要ない。根本的に、労働者ではないのだ。


残念ながらすべての分野から労働をなくすことは当分できそうにない。まだまだ人手が必要な分野というものはある。けれどそれらも将来的には自動化されてゆくだろう。そうなったとき、労働ははじめて趣味になれる。すべての人が等しく苦行から解放され、純粋に趣味で研究し趣味で製造する世界に。
それは抑圧的な暗黒社会だろうか?