国教と言える宗教を持たず、普段超越存在など意識することのない日本人には理解し難いことなのだが、アメリカなどでは科学者の中にも少なからず神を信じ真理を信仰する人がいるようだ。こうう人達には、単純化と近似によって真実に漸近するしかない科学のありようが、耐えられないものに感じられることがあるらしい。
つまり、こうだ:科学は定説を「最も確からしい」ということでしか確認できない。真実に近づきはしても、永遠に真実そのものに辿りつくことはできないのではないか。それどころか、到達点が真実かどうかを知る術を持たぬ科学は、そのうち真実を通り越して誤謬の領域へと向かう(或いは既にそうある)のではないか。
科学というのは常にボトムアップだ。現在までに確かめられていることを土台とし、新たな発見を付け加えることで成長する仕組みである。
現在の到達点が真実への道かどうかは「今のところ確からしい」という形でしか認められない。ニュートン力学によって近似されたものが、より精度の高い相対性理論によって置き換えられたように、将来の新たな発見により覆されることもある。今信じられているものは真実そのものではなく、その単純化モデルに過ぎない。言わば、じわじわと状況証拠を揃えて事実を確定させようというパズルのようなものと言える。
対して宗教はトップダウンだ。超越存在の言葉、あるいは聖典の記述という絶対の指針が先にあり、それの解釈を掘り下げる。指針を疑うことは許されず、ただその意味するところを吟味するだけだ。なによりもまず決定的な真実が根幹にあり、その枝葉がどこまで到達しているのかを確認してゆく。部分的に解釈のずれから論争が生じるとしても、根源的な部分が揺るがされることはないので些細な問題に過ぎない。
宗教と科学が互いの領域を侵犯せず棲み分けられるかどうかという議論があるが、領域云々以前に思考パターンの問題として棲み分けが難しいのではないかという気がする。幼少期にトップダウン式思考を中心に学んできた者が、全く逆のパターンを受け入れることができるか。宗教では未定の領域が科学では既知の事実であり、確定している筈の真実こそが不確定なゆらぎの中にあるというアンヴィヴァレンツとどうやって折り合いを付けるのか。
……まあ、宗教教育とほぼ無縁に成長している筈の日本人でもかなりの割合が科学的思考を持たずニセ科学に騙されることを考えると、「科学者は宗教を持つべきでない」としても「宗教を持たなければ科学的」とはとても言えないわけだが。