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憲法空条問題

日本国憲法は全11章103条から成るが、うち9条だけが欠番となっている。
ここには、本来ならば非戦条項があったと言われている。
憲法がどのような経緯で成立し、なぜ空条が存在するのか、その過程を追った。

日本国憲法の制定

1945年8月。
足掛け7年にも及ぶ戦争が終結し、日本は米国の管理下に置かれた。

当時の日本を、米国を中心とした連合国がどのように見做していたかは、ポツダム宣言の内容を読めば明らかだ。極めて危険な軍事国家であり、「完全に武装解除し戦争指導者の処罰を受け入れるのでなければ国そのものを滅ぼす」とまで宣言する。一方では国民には罪なしとして即時の生活復帰を認め、国の経済復興と民主化を期待しているが、これは鞭に対する飴の位置付けでもあるのだろう。実際、経済復興は日本という国の将来を期待してのことというよりはむしろ賠償を目的としたものでもあるし、軍備については一切認めないなど、国の再興と主権の維持を念頭に置いた内容ではなく「二等国としての存続は認める」ものに過ぎない。

ポツダム宣言はあくまで日本の降伏とその後の占領統治について定めたものであって、占領解除後にまで効力を有するものではない。米国の世論としては、撤退後の日本が軍備を整え、再び世界の敵として立ちはだかるのでは、という危険論は少なからずあった。そのため何らかの形で、永続的な軍備制限を課す方法が模索された。
しかし同宣言では無条件降伏と引き換えに日本という国の存続を認めているために、たとえば日本という国そのものを解体するような方法を採るわけには行かない。そのため憲法の改正にあたって軍備制限条項を入れよう、というのが基本的な方針であったと見られる。

GHQは原則として直接の統治を避け、日本政府の主体的な統治を通じて必要に応じ介入を行なう形を貫いた。これは占領解除後すみやかに統治権が移譲できる体勢を整えておく意義と、戦勝国の不当な押し付けという印象をなるべく残さないことにより、撤退後の急激な転換を抑制する意図があったものと思われる。
憲法の制定についても、「どれを採択するか」の決定権こそGHQ側にあったものの、草案そのものは日本人が自発的に起稿したのであってGHQが描いたものではない(ただし指針は与えられており、それに沿わないものは却下されたが)。
この時に了承を得た憲法草案の9条こそが、永続的な軍備及び交戦権の放棄を謳った条項であった。

いかに非道な戦争で複数の国を災禍に導いた悪国とて、防御のための軍備すら認めず、攻撃を受けても交戦権を持たず、完全な無抵抗主義を貫くというのはあまりに思い切った宣言ではあり、この内容については国内でも紛糾した。平和の理念が高く評価される一方で、あまりに現実味を欠くとの意見も強くあったことは当然であろう。しかし少なくともこの時点で日本には再軍備可能な余裕などどこにもなく、また改正の果たされぬうちは占領統治が解かれることもないのは明らかであったので、最終的には受け入れ止むなしとの方向で一致を見た。
だが、紛糾と修正に継ぐ修正を経てようやく憲法が成文しようとしていた正にその矢先に、朝鮮半島で戦役が勃発した。

朝鮮戦争と東西対立

当時の朝鮮半島は日本の領土であったため本土に先駆けて米ソが分割占領を行なっていたが、現地に根付いた独自政体の不在を理由とする米国の信託統治方針に対しソ連はあくまで独立国家建国の承認を目論んでおり、対立が深刻化していた。
当時、朝鮮半島は深刻なインフレと食料難に直面し、暴動が発生。南側を占領統治中だった在朝米国軍政庁はこれを武力鎮圧したが、そのことが反発を呼び、南側でも反米・反信託統治運動が激化する。北側はこれを好機と捉え、人民共和国の建国を宣言すると共に半島統一を掲げ南進を開始した。
陸路でソ連から支援を受けられる北に対し南は少数の駐留米軍のみであり、戦線は瞬く間に南端まで後退。しかしこの戦いは単なる半島統一運動などではなくバックについた米ソの直接戦争である(と米国は認識していた)。ここで撤退すれば半島の全域を共産主義に奪われるだけでなく、その勢いで日本ほか周辺国にも手を伸ばす可能性があった。

この緊急事態に、GHQは方針を大きく転換する。日本国内に駐留していた米軍4個師団を朝鮮半島に投入すると共に、日本の非戦化方針を破棄し、戦力の提供を求めたのだ。
発布寸前だった憲法は差し止められ、軍需品の製造命令が下り、それどころか軍務経験者の召集や拿捕艦艇の再配備までもが迅速に行なわれた。水爆実験に供される予定だった戦艦長門および軽巡酒匂、飛行甲板を応急修理した空母龍鳳、損害軽微だった駆逐艦潮など作戦能力を維持した艦は軒並み徴発され、また復員艦に充てられていた艦も臨時に輸送任務などへ駆り出された。
日本政府には不在となる米軍駐留部隊に代わる役割の部隊創設が求められ、これが警察予備隊として組織され、後の再軍備へと繋がってゆく。
この緊急動員と続く本国からの増援により米軍及び南韓はどうにか戦線を押し返すが、北もまた増援を得て戦況は泥沼化し、日本は再び長期戦へと突入した。
最終的には当初の分割線に近い38度付近に緩衝帯を設ける形で休戦が成立したが、両国は今もなお「戦時下」であり、南韓の防衛には在韓米軍および日防軍防共艦隊が常駐している。当時「日本軍を受け入れる」ことについては反発もあったものの、壊滅寸前まで追い込まれた独自戦力のみで防衛が覚束ないことは明らかであり、感情と実利の折衷案として「日防軍については海上戦力のみ受け入れる」という形で防共協定が成立。以来今日まで、韓軍は主として陸軍に注力し航空支援は米軍が、洋上防衛は日本が担うという三国関係が続いている。

また、朝鮮戦争と時を同じくして中国でも国民党と共産党の内戦が激化、山間でのゲリラ戦と農民の取り込みで劣勢を覆した共産党によって国民党が駆逐されて台湾島に移転。一方で南亜の仏領でも独立戦争ソ連によって支援されるなど、アジア全域に共産化の流れが起きている。これを憂慮した米国は、中国およびソ連の太平洋進出を阻む防衛線として最適な位置にある日本を防衛構想に組み込むべく、新憲法からの不戦条項削除と日米安保条約の締結を求めた。
これは米国にとっては太平洋戦略の重要拠点を軽負担で防衛できる意義があり、日本にとっては国力が整うまで強大な戦力に庇護され、また経済的な繋がりを強化できる意義があった。だが「崇高な理想を掲げた」はずの新憲法から肝心の条文がなくなることについては、主に左派などから強い抵抗があり、国内ではこれらを巡っての学生闘争が行なわれるなどの騒動に発展した。
これらの感情的わだかまりが、非戦条項を単に削除するのではなく、本来あるべき位置を空欄とする形で表れたのだろう。それ以来、日本国憲法には不自然な空条が存在し続けている。

日本の再軍備と戦後戦争史

1950年代

日本の駐留部隊を朝鮮戦争に投じたGHQは、日本国内の治安維持と朝鮮戦争が長引いた時の予備兵力を兼ねて「警察予備隊」および「海上警備隊」の組織を指示。名目上は警察となっているが、警察庁ではなく内閣府の直属であり、その装備も明らかに戦闘を想定していた。
なけなしの戦力をかき集めての朝鮮戦争派兵以後、警察予備隊/海上警備隊は米国からの装備供与・製造技術供与を受けて増強を重ねてゆく。
そして新憲法の成立と占領米軍の撤退を経てこれら臨時戦力は正式に防衛軍として再編された。名称に防衛と入れたのは前大戦の侵略主義に対する批判に応じたものだが、それでも再武装化そのものへの批判は強く、とりわけ領海を接し長く日本の支配下にあった北朝鮮・中国からの反応は著しかった。
また国内に於いても、戦禍から間を置かず再びの参戦となったことに対しては強い反発があり、安保条約への反対運動を契機に国内左翼闘争は激化。これに対し政府は公安警察を増員し摘発を強化することで対応し、左派を厳しく弾圧していった。合法政党として生き残るため共産党は革命路線を否定したが、若年層を中心とした革命左派はこれを裏切りと捉え反発すると共に地下組織化の道を選び先鋭化してゆき、その後国内外で多数のテロ事件を引き起こすことになった。

1960年代

東京オリンピックの直後、米国は暗殺された前大統領に代わり副大統領が大統領選に当選。北爆をはじめとするベトナム戦争への本格参戦に伴い、安保条約を締結している日本にも相応の派兵が求められた。日本はこれに応えて軍を派遣し米軍と共闘するが、朝鮮戦争の終戦から10年を経ずして再び長期的な戦争に参加したことに対して国内からの批判が強まり、日米安保条約の期限更新を前に反対闘争は一層激化する。軍の大規模派兵による国内治安低下の懸念を公安警察の武装化により補う法案が成立し、特機部が編成されたのもこの頃である。
「国内の反対意見を押し切って強権的に軍事化を推し進める」政権に対する反発は極左派の武装闘争路線を加速し、それが却って行政の強権化を強め、その閉塞が更なる武装闘争を励起するという循環が国内を半内戦状態に至らしめた。国防を訴える右派が自国と利害のない地の戦争を進め反戦を訴える左派が国内を争いに巻き込んでゆく状況は皮肉という他ない。
遠い異国の地で泥沼化する戦況と、悪化する国内情勢は、国民に厭戦感情と政治不信をもたらした。この頃から投票率は急激に悪化し、自民党社会党ともに議席を減らしてゆくが、その中で新たに結党された公明党は信者の動員により相対的に高い得票率を維持して存在感を増し、当初の自民党との連立与党から単独与党にまで登りつめる。しかし「宗教政党が単独与党として政権をっている」こと、また「警察権を強化して国内を弾圧している」ことが欧米諸国で問題視されるようになる。この時期の米外務省の記録などを見ると、あくまで「反共の点で協調可能」とはしながらも日本に対する警戒を強めてゆく様が伺える。
また、米国の要請に基づく行動とはいえ朝鮮戦争に続き「日本の軍が、自国防衛ではなく他国の領土拡張に使われた」ことに対しては中国なども警戒を強め、海軍の増強や洋上示威行動で日本を牽制。これに応じ日本も海軍を哨戒に当たらせるなど一触即発の状況が続いた。これ以降中国との国交は長く断絶する。

1970年代

オイルショックは国内にも景気の後退だけでなく危機感をもたらした。産油国の都合で価格の変動する石油に依存した電力構成から安定した供給の見込める原子力への転換のみならず、軍事面でも海軍力の中核を原子力に移行すべきではないかという議論が交わされたが、被爆国としての非核三原則の撤廃には至らなかった。
経済的・治安的な諸問題を解決する意図もあり、政府はオリンピックに続く国民的行事として国際博覧会の開催を決議、これにより1970年に大阪で万博が開催された。国内外に未来感を大々的にアピールしたこの催しは国内の閉塞的雰囲気を吹き飛ばすと共に国際的なイメージを改善、また大規模な公共工事とインフラ整備によって景気も拡大した。
一方で、10年以上続いたすえに実質的敗戦となったベトナム戦争派兵のもたらした戦費と損失は大きな問題となり、これ以降、日本は米国との共同派兵に対して消極的な姿勢を取るようになる。
また国連決議により中国が代表政府として承認される中、日本は中国との断絶もあり依然として台湾を国家承認しており、台湾海峡危機後には日華防共協定を締結。しかし中国との国交を重視した米国とは方針が対立。この後増加する貿易摩擦などもあり、日米間は疎遠になってゆく。

1980年代

70年代の末から米ソの対立はアジア圏からイスラム圏に軸足を移し、政治・経済的イデオロギーの対立から宗教的イデオロギーの対立が紛争の主眼となってゆくが、日本に於いては明治〜昭和初期の新興宗教に対する新々興宗教という対立が勃興。これは長年与党を支え続けた宗教の相対的な求心力低下をも意味し、一時期の政治不信を元とした20年来の単独与党体勢が揺らぎはじめる。
石油・天然ガス輸入ルートである中東域に紛争が相次いだことにより第三次オイルショックが懸念され、日本は周辺海域での海底資源開発を急ぎ東シナ海の日中境界線付近での調査を開始。しかし中国側では大陸棚の続く海域に領有を主張し、これを海軍の派遣により牽制したため日本との軍事的緊張が高まる。
また安定的な石油・天然ガス輸送を目的とした洋上の安全確保の重要性が認識され、日本は東南アジア諸国連合に加盟しフィリピンやインドネシアなどとの経済的・軍事的同盟関係を構築するが、これは当初反共同盟として結成された経緯があり、中国側はこれを自由主義陣営による洋上封鎖の危機と見做し、南シナ海への「防衛的侵攻」を開始したことにより中比紛争が発生、日本もこれに対し日防海軍を派遣することとなり、戦後はじめて日中が直接交戦する事態に至った。
およそ3ヶ月にわたる紛争は、全面戦争へのエスカレートを危惧した米国の仲裁により終結したが、領海の問題は棚上げされた。
80年代末頃からはソ連による共産支配体勢が崩れはじめるなど、国際的なバランスが急変してゆく。

1990年代

米ソによる干渉の均衡が崩れたことにより中東では紛争が多発。石油経済を巡る紛争は一方的な蹂躙の様相を呈し、国連安保理はこれを非難。米国は武力行使容認決議を得て制裁のための軍事侵攻を行なうべく各国に派兵を求め、日本は石油供給の早期安定と産油国への影響力強化を目的に参戦し、戦後の経済制裁に伴う石油=食料交換制度の元での石油確保に成功した。
一方で戦争への積極的関与はこれまで与党を支えてきた信者層からも批判を呼ぶなど、磐石だった体勢が崩れ始める。バブル景気の崩壊による不況も手伝って政権の支持率は急落、この弱まりを好機と見た野党各党は政治体勢の変革を訴え選挙戦を展開し、これが功を奏して公明党を除く連立政権が樹立した。
しかしその任期中に阪神大震災が発生、官僚組織の動かし方のノウハウを欠いた政権はこれに的確な対応ができず、結果として早々に支持率を落とすこととなる。
更には、政治的混乱に乗じて新々興宗教団体が都心部で大規模なテロを決行。多数の被害者を出しながらも「革命」は成らなかったが、結果として新政権ならびにそれを支える各党は一様に信任を失い、その後再びの公明党単独体勢が成立する契機となった。

21世紀

同時多発テロ攻撃を受けた米国では関与の疑われた中東の国々を名指しで非難、「対テロ戦争」を宣言する。しかし国が関与しているという明確な証拠はなく、国連武力行使決議を否決、米国は決議に賛成した英日とのみ共同で開戦に踏み切った。
戦争自体は早期に終結したものの、その後長期にわたる治安維持活動は戦争そのものよりも多くの被害を出すなど大きな負担を残したわりに何の利ももたらさず、参戦に対する批判が強まってゆく。
2009年には衆議院選挙に於いて「政権の交代」を焦点にした戦略により民主党が単独与党として公明党を下すも、任期中に東日本大震災および原発事故という未曾有の災害に見舞われ、その対応への批判から次の選挙で三度公明党が与党に復帰した(なお、大きな災厄のある時期だけ政権を手放す神懸かった危機回避の陰には支持母体である創価学会の予言があったという噂すら立ったが、無論公的には否定されている)。

あとがき

憲法9条は扱いの難しい条文である。非戦主義を採った理由は充分に理解できるが、他方では生存権を他者に委ねるわけに行かないというのもまた当然ではあり、解釈と運用、あるいは改憲の議論は尽きない。
この条項は他に類を見ない「平和への願い」ではあるものの、それが平和に寄与しているかどうかという観点では賛否両論著しい。曰く「9条があるから日本は戦争せずに済んでいる」曰く「9条のせいで充分な防衛力を発揮できず危険」……
過去を変えることはできないが、「過去を変えたらどうなるか」を考えてみることはできる。日本国憲法が9条を欠いて成立した場合の現代日本史というものを考えてみよう、というのが本稿の趣旨である。

「なぜ9条がなくなったか」について、ここでは「朝鮮戦争が数年早く発生した」というifを設定した。これだけが唯一、「9条がなくなった結果」ではなく「9条をなくす要因」であるが、他はすべて状況から導かれた展開である。
ただ、歴史とは複雑に絡み合った要素の集合体であり、そのうちごく一部を変えただけでもどこに変化が波及するかを読むのはたいへん難しい。たとえば降伏がもう少し遅くなれば日本は南北に分断されたかも知れず、そうなれば戦後史はたとえば朝鮮特需どころではなく日本が内戦の繰り返しで経済的に低迷し、こんにちのゲーム・アニメ大国としての姿などどこにもなく、コミケも存在していないかも知れない…‥などと、大きく違った姿を描くこともできる。
「9条がない」だけの違いがもしかしたら大きな変化になっていた可能性もあるのだが、これを書くためには多方面にわたる実史を参照せざるを得ず、結果としてかなり実史に引き戻されてしまった感は否めない。「これが歴史の復元力か……」などと感慨に襲われたりもしつつ、変わりそうな部分はなるべく変えようとした結果として妙なバイアスがかかっている部分もあるが、ひとつの遊びとしてご笑覧頂ければ幸いである。