シビュラシステム論集

正式導入から僅か30年あまりで、シビュラシステムは国民の生活に浸透した。行動の指針や将来の指標、服装アドヴァイスやリラックスするための環境整備など、今やシビュラの補佐なしでの暮らしなど考えられないまでに社会は変化している。
とりわけ犯罪係数計測の実証が行なわれて以降は潜在犯更生プログラムが旧来の刑法に代わり機能するようになったため、長時間を要する刑事裁判は不要になり、また警察組織が厚生省の下部組織化するなど社会構造には大きな変動があった。

シビュラ以前の旧刑法では、刑罰規定は罪に対する罰ではなく、あくまで未然の抑止力と事後の更生を主眼としていた。しかし抑止力は目的達成後の保身を必要としない者に対しては無力であり、また再犯率も決して低くないなど更生の観点でも意図通りに機能していたとは言い難い。
これに対しシビュラによる潜在犯の検出は犯罪統計に基づく将来的な可能性の排除であり、恫喝的な厳罰の提示による心理的抑止力を必要とせず犯罪そのものを防止でき、また犯罪係数の計測により更生状況の確認が可能であるため再犯問題も解決できることになる。まさに革新的な変化であり、社会学者の中には民主主義にも匹敵する「統計主義社会」の到来、と表現する者もいる。
(「シビュラの刑法史」2108年より引用)

厚生省はシビュラシステムによるサイコパス計測について、「サイマティックスキャンによって計測した生体力場から市民の精神状態を科学的に分析し、得られるデータを数値化したもの」と説明している。ただし、実際に何を計測しているかなどの情報については「正確な計測を妨げる」との理由から詳細情報を隠匿している。

シビュラは主に公共空間に設置されているスキャナを通してサイコパスを測定しているとされる。
メーカーの技術資料から判断する限りでは、 スキャナの持つ機能は基本的に光学映像・モーションセンサ・サーマルセンサ・立体音響マイク程度で、何ら特別な装置ではないようだ。
「スキャナによる計測」を前提とする限り、得られる情報はいずれも外形的なものに限られる。足の運びや目の動き、声の抑揚など、漠然としたデータしか得られない。これでも緊張の程度とか意識を向けている対象程度のことは伺えるだろうし、予めマークしている人物であれば「実行の直前に意図を把握して阻止する」ぐらいのことは可能かも知れないが、「将来の犯罪可能性の高まりを検出し潜在犯として逮捕する」に足るデータが得られるとは考え難い。
だとすれば、潜在犯はスキャナに引っ掛かる以前から既に潜在犯として公安にマークされており、逮捕は単に居所を突き止められただけのことと考えるのが妥当だろう。
つまり、シビュラがサイマティックスキャンによって市民の心理的健康を維持しているというのはまったくの出鱈目であり、あのスキャナは実際には市民を監視するための装置なのだ!
(2096年、摘発された反シビュラ運動団体の地下文書より)

犯罪には衝動的なその場限りの行動と、計画的な犯行がある。
このうち、衝動的犯行の検出自体はスキャナである程度対応可能と思われる。表面温度の上昇傾向や赤面化、声の調子や身振りなどから激昂状態にある人物を切り出すことは可能だし、会話内容を単語解析できるなら「殺す」など犯罪に繋がるであろう発言の頻度などを見て警報を発することができる。ただ、こうした変化はごく短時間のうちに発生し、そのまま犯罪の実行に至る場合が多いと考えられ、シビュラ本来の目的である「未然の犯罪防止」にはあまり役立たないものと思われる。
逆に、計画的な犯行の検出はスキャナだけでは難しい。計画犯は社会への影響で言えば単発の衝動犯よりも大きくなりがちであるため、確実な検出が求められるが、衝動犯よりも表面的な数値に表れ難い傾向がある。実行の直前では衝動的犯行と同様に緊張や興奮が現れるかも知れないが、計画がある分だけ冷静であるため数値的にはそれほど高いものにならないし、また組織的な計画の場合主犯は実行に関わらないケースもあり検出はより困難となる。
恐らく、計画的潜在犯の検出については街角スキャナのデータよりも日常の行動監視の方が有効性が高い。情報の閲覧履歴や発言内容などからは思想傾向や心理状況が分析できるし、購入履歴や行動範囲を辿れば犯行計画の推測も可能だ。こうした準備活動はまさに「近い将来、犯行に及ぶ」ためのものであり、シビュラシステムによる防犯の精度と効力を鑑みれば、情報検閲は日常生活すべてに及んでいると考えるのが自然である。

ここで、シビュラのもうひとつの機能である「生活支援」が効いてくる。
人々は日常的にシビュラ端末へあらゆることを指示しながら生きている。ニュースの検索、着てゆく服や部屋の内装、今日の占い、職業相談や行動指針、予定表やメモ、あるいは購入履歴や閲覧履歴、そういうものがすべてシビュラへ集約されてゆく。今やそれらは生活の根底に浸透しすぎて、ほとんど意識されないまでになっているが、それだけ情報が積み重なれば思想傾向も「犯罪可能性」も充分に分析可能になる。
むしろ、表向き「市民の人生を実りあるものとするため」に提供されている各種支援は、実のところプライヴァシー範囲の確実な開示のためにあるのでは……というのは勘繰り過ぎだろうか。
(2111年、後に潜在犯として逮捕された人物のWeblogから)

犯罪係数とは何か、という問いに辞書的に答えるならば「犯罪統計に基づき導出された、ある人物が将来的に犯行に及ぶ可能性の程度を示す数値」といったところでしょうか。
しかし「具体的にスキャナーがどのようなデータを出し、それをどのような理屈に基づいて処理しているのか」については国家機密になっており、一般市民が伺い知ることはできません。
ですが、いくつかの状況証拠から概要を推測することは可能です。

皆さんも、ニュースなどで「エリアストレス警報」や「モラルハザード」という言葉を目にしたことがあるかと思います。厚生省によればエリアストレス警報とは「地域全体で短時間のうちに犯罪係数の上昇傾向が見られる現象」、モラルハザードは「犯罪係数の上昇による潜在犯化が連続的に誘発される現象」とのことですが、両者はほとんどの場合で同時に発生していますので、密接に関連する現象であることは明らかです。これはつまり「思想・行動傾向に関わらず、ストレスに晒された人間は高い割合で潜在犯と見做される域まで犯罪係数が上昇する」ことを意味します。

本来、統計は長期的/広範囲のデータから傾向を読み取るための手段であり、短期的にピンポイントの変化を見るには適しません。たとえば、「ある人物の行動傾向を長期的に分析した結果として犯罪係数の上昇傾向が見られ、一定の範囲を上回ったため潜在犯として逮捕される」とか「ある地域の居住者は他地域に比較して犯罪係数が高まる傾向にあるためパトロールを増やすなどの対応を行なう」といったことはあり得ますが、「突然のストレスに直面したことによる瞬間的な犯罪係数の上昇」は統計から出てくるものではないのです。

そもそも、統計というのは言わば「ある仮定に対する誤謬の可能性がどの程度か」を示すための推定法です。つまり、得られる結論は常に誤りの可能性を含みます。ですが、シビュラはそれを絶対の基準とし、その場で裁定を下してしまいます。ということは、逮捕された人の大半が実際に罪を犯すであろう人物であったとしても、それ以外にも冤罪による処刑が少なからず生じているはずだ、と
(2098年、公安局により中止させられた講演の記録より)

そもそも、シビュラ導入当初の段階では、国民の意識はむしろ中央集権的な監視システムに対し強い警戒感を持っていた。当時の報道を見ても軒並み批判的論調であり、この構想が歓迎されるものではなかったことが伺える。
また国民に関する統計情報は本来なら総務省の、犯罪統計は警察庁の管轄であり、厚生省がそれらを含む包括的事業を実施するのは些か越権であるとの見方も少なからず省内外から出ていたようだ。
とはいえ、当時この国は様々な行き詰まりからストレス過多に陥っており、自殺率及び自棄的犯罪率の高まりは深刻な社会問題であったから、総合的ストレスケアの必要性は誰しも認めるところであり、内閣がこれを強く推進したのも無理からぬことではある。
それでも当初は自殺率・重犯罪発生率の高い地域を限定的に特区と定めての試験的運用に留まったが、その有用性はすぐに明らかなところとなった。とりわけ犯罪の予見性については警察庁でも強い興味を示したものの、どういうわけか厚生省はデータを譲渡せず、逆に厚生省直轄の公安機関設立を諮った。
ただでさえ公安組織は複数が活動しており、その管轄範囲に関しても少なからぬ軋轢がある。厚生省の提案はそれに更なる一石を投じるもので、シビュラシステム推進に意欲的な内閣さえも難色を示したが、厚生省は逆に「各省庁が独自の公安活動を許されているのだから厚生省がそうできない理由がない」と強硬に主張。最終的には特区内に限っての運用という制限付きで押し切られる形となったが、この点については何故か明確な記録が残されておらず、経緯には謎が残る。
このように疑惑だらけのシビュラではあるが、それでも有用性は疑いようがなく、6年後には特区の制限が解除され全国的な運用を開始する。
(「シビュラシステム前史」2110年、発禁)

シビュラの「支配」はゆっくりと、しかし着実に進んでいった。手始めに各省庁の保有するシステムとの連携を図ると、統計の精度向上とスムーズな連携を口実にシステム中核へと食い込み始め、中枢機能を骨抜きにしてゆく。気付けばほとんどの省庁はシビュラなしで機能できないまでに追い込まれており、形骸化するか厚生省下の庁・局として取り込まれていった。
すべての省庁がシビュラに依存し切っていたわけではなかったが、警戒を強めた部局も潜在犯認定には抗いようもなく、強硬派から着実に「粛清」を受けた。今やこの国すべてがシビュラの支配下にあるといっても過言ではあるまい。
(「シビュラへの抵抗」2100年、発禁)

刑法はたしかにシビュラが裁くべき罪科の範囲を規定するが、シビュラによる潜在犯指定は決して当該の人物がその罪を犯したことを証明する必要がない。シビュラによる裁定の範囲はあくまで「将来に於ける可能性」であって過去ではないからだ。
またシビュラによる更生措置に於いて量刑の概念は基本的には2種、「即殺」か「更生完了までの無期拘禁」しかない。前者はその後決して罪を犯すことなく、後者は更生完了故に認定された罪を犯さない。仮に何らかの理由で再び犯罪係数が上昇するとしても、それは別の話となる。
従って、原理的にシビュラの裁定は反証不可能である。罪を犯していない者の、罪を犯す可能性を裁き、それにより罪を犯すことを防ぐシビュラは、常に「犯されない罪を裁く」のであり、それを認める以上は「シビュラの裁定が間違っている」ことを示す根拠は何一つない。
つまるところシビュラは「裁くべきを定め、その定めによって裁く」のだ。シビュラ自身に「何が罪で、誰が咎人で、どう裁くべきか」をすべて任意に決定する権能が備わっている。全能の独裁者装置であると言えよう。

これほどまでに独善的なシステムが存在を許されているのはひとえに、自動的な仕組みであって恣意的な判断の介在がないと信じられているからに過ぎない。が、裁定を下すためのデータそれ自体には恣意性がないとしても、判断基準となる閾値の設定やデータ取り扱いの方程式はあくまで設計者の恣意性を受けて成り立っているし、また運用中にそれらが適宜書き換えられていないことを保証するものもない。
だとすれば、我々は全能のシステムなどではなく、実は一握りの独裁者によって支配されているのだとしても、何の不思議もないことになる。
(「シビュラという独裁」2089年、発禁)