テロの論理

こういうニュースが話題になっていた。

要約すれば「UNICEFがゲームショーに参加し、新作ゲームの内容と偽ってアフリカの深刻な社会状況をプロモーションした」という話である。
はてなブックマークなどを見ると、「手法に対する否定的な反応」ばかりで埋め尽くされている。

このプロモーションは失敗だったんだろうか。

一般にプロモーションというのは「好感度」を稼ぐものだ。いかに良いものかを知ってもらって、それにお金を出してくれるよう誘導する、というのが普通のやり方である。その視点からすれば、反感ばかりを買うこんな手法は明らかにマイナスだろう。

しかし、これが「注目を集める」ことに特化した手法だとしたならば、どうか。この紹介記事だけでも300以上のブックマーク、3000以上のTweetを稼ぎ、恐らくその数十倍はアクセスを集めたであろうこの手法は、確かに注目されはしたのではないか。
「実際にゲーム作れば」「映画じゃ駄目なのか」「もっと他にいい方法があったはず」そういった声も多数あるが、では実際にこれ以上に効果的な手法を、誰か考え付くだろうか──あまりコストのかからないやり方で。

もちろん、これは手ひどい騙し討ちだ。ゲームの情報を見に行ったのにゲームではないものを見せつけられた人は怒ってもいいい。しかし第三者に過ぎない我々がそれに怒りを覚えるのはお門違いというもので、せいぜいこう問いかけるのが関の山だ:「なぜ」こんなことを?

理由は明白だ。「そうでもしなければ無視されるから」。
無視。そう、無視されてきたのだ。

かつてルワンダで行なわれた虐殺では、国連が部隊を駐留させていたにも関わらず、諸国は「虐殺を止める」ことよりも「自国民に被害を出したという批判を免れる」ことを選択した。自国の話ではないから。国民が関心を寄せる問題ではなかったから。
ボスニアの内戦では、国連の介入を要請するためにプロモーションを展開し世論を煽った。知られたからこそ、国民が声を上げるまでになったからこそ、アメリカは動いた。
無知こそが何よりの敵である。「知った上で与しない」のと「知りもしない」のでは意味が違う。

「主張を突き付けるためには手段を選ばない」というのは、端的に言ってテロの論理だ。主張が正しかろうとも、間違った手段に頼ることを正当化できるものではない、というのは真っ当な批判である。しかし逆に、間違った手段であろうともそのことを理由に主張が無視される謂れはない、とも言える。
手段への批判と、主張への批判は別個になされるべきだ。たとえ相手がテロリストであるとしても、「テロリストの言うことだから耳を貸さない」のではなく「耳は貸しても、それはそれとしてテロは許容できない」でなければならない。そして、UNICEFの第一目的は「耳を傾けてもらう」ことにあるのであって「UNICEFを支持してもらう」ことではない。
このプロモーションは立派に役目を果たしているのだ。