共通認識のない議論

「在日特権」絡みの議論を見ていると既視感を覚えずにはいられない。


この議論で一番問題なのは、各人が「在日特権と呼ばれるものの具体的な中身」をはっきり定義することなく口々に意見を述べていることだ。ある人はAについて「そんな事実はない」といい、またある人はBについて「こういう実例がある」という。まあ各論ならばそれでもいいのだが、そういう一面だけを取り上げて総論として語ろうとするから捻れを生じるのだ。
まずは、

  1. 実際に「特権」とする内容にはどのようなものがあるか
  2. それは「誰と比較しての」特権なのか
  3. 特権があるとすれば、それは「誰によって与えられているのか」

をはっきりしてから語るべきだろう。
例えば、以前私は在日特権の有無を検証するエントリを書いた。これは、執筆時点でのWikipediaに於ける記述に対して検証を行なったもので、この時点ではほぼ全項目について否定的な結論に達したが、その後に一部自治体に於ける在日朝鮮・韓国人住民を対象とした特例としての免税措置などの存在がニュースになるなど、多少情勢の変化もある。
これをして「やっぱり在日特権はあったんだ」というのはやや早計に過ぎる。少なくとも、報じられた内容から判断できるのは「一部の自治体で、一部の人を対象にそういう例があった」であり、少なくとも「在日朝鮮・韓国人全員に共通する特権」のようなものではないようだ。とすれば精々日本人の脱税などと同程度の扱いが妥当であろうし、実際には(特例措置の開始時点での事情は定かでないものの)当人にとっては自治体が認めての措置であるから脱税というのも適正ではない。
実際に「在日特権を許さない」などと怪気炎を上げる方々の主張する特権とはこの程度の代物ではあるまいし、仮に「これこそが特権だ」というのであれば、報じられた自治体はいずれも既にこの扱いを解消しているので、倒すべき敵はなくなったということになる。


ここで取り上げたいのは在日特権に限った話ではない。陰謀論歴史修正主義ニセ科学などに於いてもしばしば見られる、「主義主張を明示しないことによる無限後退戦術」についてである。在日特権の話はその例示に過ぎない。


議論に当たっては、用語の定義が重要な意味を持つ。同じ単語が文脈次第でかなり違った意味を持つことは珍しくもなく、それを確認しないままに話を進めれば、互いに相手の言葉を誤解したままに議論が空回りしかねない。
例えば「ユダヤ人」という言葉をユダヤ教の信者集団を指す意味で使うならば、「日本国籍ユダヤ人」などもその中に含み得るし、「遥か昔にユダヤを出奔した一族に連なる血脈」という意味ならば2000年間のヨーロッパ散逸/混血により極めて広範囲の人々がそれに含まれることになる。
良心的な議論であれば、空回りに気付いた時点で定義を再確認し、過去の議論に遡って確認のしようがあるだろうが、悪質な手合いでは敢えて用語の定義を避けることでその時その時で都合の良いように意味を取り替えるような輩も存在する。そんな連中は単に相手を黙らせることに悦びを見出しているだけの阿呆であり、相手するだけ時間の無駄というものだ。


見方を変えれば、言葉の定義に対する姿勢、反論を受けての定義変更ぶりを確認すれば、その人が議論に誠実かどうかが判断できる。
くれぐれも、議論はまともな論者とだけ交わされたい。議論姿勢さえまともであれば、論じる内容に妙な点があるとしても論理的に説き伏せることができるし、真に誠実で知的な者同士の議論であれば、自ずとひとつの結論に終着するものだ。