差別問題のパラドックス

差別問題でよく言われる意見のひとつが「"差別されて可哀相"という外野の声によって逆に差別が固定化される」というものだ。実際にそういう側面はあって、これが差別問題をややこしくする要因となっている。


まず最初にはっきりさせておこう。
「可哀相」はそれ自体がひとつの差別だ。深刻な状況を見て胸を痛める、それは情としては正しい。だが哀れみの念は同時に「自分はそうでない」ことの表出でもある、ということは肝に命じておく必要がある。
それを自分のこととして、自分にも有り得ることとして捉えることができるならば、為すべきは同情ではなく「撤廃のための行動」だ。
同情を続けることは、「可哀相」を固定化することに他ならない。
念の為:これは被差別者本人についても言えることだ。「わたし可哀相」だけでは物事は一切解決しない。


しかし「差別が存在する」ということの提示は、これとはまた別のものだ。
現象だけ見れば、差別の存在に光を当てることで差別意識というものを助長してしまう側面は否定できないが、本質的な違いはそれが「解決のための第一歩」だということ。
存在すら認知されない問題は解決のしようもない。まずは認知させ、次にそれが悪しきものであることを理解させ、そして差別を取り払い、最後に再びその存在を意識から追い出す必要がある。


従って我々は、まず言わねばならない:「それは差別である」と。それをまず認知させ、その上で「どのように撤廃してゆくか」を考えるのだ。


正直なところ、撤廃は非常に難しい。かつて被差別者だったことのある人、今もそうある人はかなり多いと思うが(例えば在日本定住外国人だけでなく部落出身者や障害者、低所得だったり風俗産業のような世間評価の低い職業に従事していたり。オタク趣味だったり人目を引く風貌だったり、女子供だったり。地元民でないことや特異な利点を有することさえ差別要因だ)、そういう人であっても自分自身に関わる要因以外の差別を認識していなかったり差別に荷担していたりもする。「我が事として捉える」というのはかなりの知識と想像力が要求されることでもあり、問題の本質を理解させることは困難を極める。
結局のところこれは人の社会性──即ち、他者との比較により自己を相対的に認識する性質の持つ欠点なのかも知れない。相対であるが故に、自己を高めることと他者を貶めることを区別できないという本能的な問題。


なべて人類が理性的でありますように。