失敗のコスト

失敗には2種類ある。挽回できる失敗と取り返しのつかない失敗だ。
より正確に言うなら、失敗には回復のためのコストというものがあって、中にはそれが無限大となってしまうものもある、と言うべきか。


回復コストが小さい失敗はあまり気にしなくて良い。ただ積み重なるとそれなりのコストになる場合もあるので、あまり頻繁に生じるようならちょっと体制を見直してみるなどの必要はあるだろうけど。
コストの大きい失敗はなるべく発生しないような体制を敷く必要があるけれども、この時発生率低減にかかるコストとのバランスが肝心となる。ミスの発生を0にしようと思えばコストは無限大に発散してしまうし、0に近付ければ近付けるほど指数関数的にコストが増大してゆくから、ミスの発生率低下により減少する回復コストと、そのために投資するコストのどちらが大きいかをきちんと見極めねばならない。


どういうわけか日本は失敗を極度に恐れる文化体系が中心的で、失敗すなわち回復コスト無限大というか、なにしろ近代まで「失敗は死を以て償う」という考え方が一般的だったわけで、結果として現代まで「いかなる失敗も許されない、それを解消するためにはあらゆる犠牲を払う」みたいな考え方を引き摺っている。
それなのに欧米式の徹底した合理化経営なんかも導入しちゃってるものだから「相手のミスについては発生率を0にするために無限大のコストを強要しつつ、自社のコストは徹底的に切り下げる」みたいな捻れが生じてしまう。皆がそれをやったら、結果として身動きが取れなくなって生態系すべて道連れに自死するしかない。


ミスしたくないなら何もしないのが一番だ。けれど何もしなくたって基礎代謝分のコストは発生し続けるから、いずれ貯蓄を使い切って衰弱死するしかない。
死にたくないなら/殺すつもりがないなら、互いにミスはコストと割り切るのが一番。もっとドライに生きようよ。