コミュニティとはキモいものだ

はてなは、しばしば外部から閉鎖的コミュニティと見做されている。端的に表現すれば「はてなキモい」。
それは誤解だ。はてながキモいのではない、あらゆるコミュニティが本質的にはキモいのだ。ただし内部からはあまり自覚されないが。


コミュニティとは何か。一言で言えば「意識的に外部と隔たりを有する集団」である。
ただ人が集まっただけではコミュニティは成立しない。ただ人と人が互いを同一集団に帰属するものと認め、それ以外との差異を認識した時、そこにコミュニティが成立するのだ。
コミュニティに明確な実体はない。中核となるものが存在する場合もあるが、個々の人物単位で見ればコミュニティへの帰属意識を失って離脱する人や新たに加わる人が常に出入りする流動的な場であり、たとえ中核が失われても全体としての帰属意識さえ残ればコミュニティは存続し続ける。
完全に独立した世捨て人以外のあらゆる人間は何らかのコミュニティに所属する。友達、家族、クラス……あらゆる集合が一種のコミュニティだ。ただ、多くはそれがコミュニティであることすら自覚していない。


しかし、あらゆるコミュニティが「キモい」と揶揄されるわけではない。では「キモいコミュニティ」と「キモくないコミュニティ」の差はどこにあるのか。
キモい、という発言の真意がどこにあるかと想像するならば、恐らくそれは「理解できないものへの恐怖にも似た感情」であろう。異物を排除しようとする本能的行動、その上に発生したものが他コミュニティに対する「キモい」発言である。
時には自らの所属コミュニティに対してその声が発せられることもある。しかしこれも同様に異物排除行動の一貫と言える。総体としては所属しているコミュニティの、理解できない(=その部分には帰属意識を抱けない)部分に対してそう発言しているだけのことだ。
あるいは外部の声を聴いて、それに同意する場合。これはつまり、自らの姿を客観的に判断した結果として「たしかにキモいかもわからんね」という結論に達するわけだが、その瞬間には意識の上でコミュニティに所属していないと言える。
そもそも帰属意識とは概ね「自らと同一視する」ことに等しく、帰属と客観はまったく相容れない(とは言え、人は自らをも客観視できる能力を備えている:即ち、自分自信というコミュニティからも一時的な脱却が可能なのだということだ)。
つまり、キモいと揶揄され易いコミュミティというのは、それだけ周囲と比較して異質な部分の多い集団ということになろう。


独特のもの、唯一無二の何かを持ち合わせているコミュニティ。それは唯一無二であるが故に強く人を惹き付け、またそれ以上に遠避けもする。そして、遠避かった者は本能的な恐怖感から周囲に警告を発するのだ:アレはキモいから近付いてはならぬ、と。


はてなが何故キモいか、それははてながあまりに突出した独自性を有することの現れなのだろう。