心理学実験としての「水伝」

Kikulogの「インテリジェント・デザイン」のコメント欄で、「うま」なる人物が「『水からの伝言』は科学としてはともかく、心理学実験としてなら評価できるのではないか」ということを主張していた。
これだけではさっぱり要点が伝わらないので、もう少し詳しく解説すると、

  1. 水に「きれいな言葉」をかけると物理的作用により「きれいな結晶」ができる、という主張は間違っている
  2. が、水に「きれいだと思う言葉」をかけると心理的作用により「結晶がきれいに見える」ならば否定できないのではないか

といったようなことだ。
無論、水伝はこの点でも科学的ではない。そもそも結晶の写真のうち綺麗に見えないと判断されるものは除外されている(つまり「きれいな言葉をかける」と「きれいな結晶ができる」の関係性が破られている)し、統計的な調査としては当然あるべき「おなじ結晶を見せて、きれいな言葉と汚ない言葉で主観が変化するか」といった調査を行なってもいない。常に実験者が「きれいだと思う言葉をかけて」、「きれいだと思う結晶ができたら」実験成功、としているに過ぎない。それ以外の結果が出たからといって説の信憑性を疑うのではなく実験た失敗しただけと見做すわけだから、どんな結果でも出せようというものだ。


もし水伝に心理学実験たる資質を与えようというのであれば、最低でも数百人の被験者を集めて、対象に【A:綺麗だと思う言葉をかけさせて結晶を見せ、感想を得る】【B:汚ないと思う言葉をかけさせて結晶を見せ、感想を得る】の2種を、同じ結晶について行ない、その印象情報を統計的に処理する、ぐらいのことはやって見せるべきだ。そこで有意差で「きれいな言葉をかけた方が綺麗に感じる」という結果が出てはじめて、先程の主張に意義が生じる。


ただし、それと「水伝を道徳の授業に使う」こととは、また話が別である。道徳の授業に使うことの問題点は、善悪の判断基準を自分の考えではなく水の結晶に委ねてしまうことにあるわけで、これは物理学的主張であろうと心理学的主張であろうと変わらない。
また、綺麗に見えるからといって波動が云々とかいった水伝の主張が有意性を持つわけでもない。「綺麗に見えると期待すると綺麗に見えてくる」だから何だというのだ。