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屍者の帝国 劇場版を原作と比較して

劇場版「屍者の帝国」を観てきた。
多数の史実虚構を織り交ぜ、数ヶ国を横断して繰り広げられる複雑で壮大な物語を2時間に落とし込むという難題によく応えた作品だが、そのために削り落とされてしまった部分が多いのは、致し方ないこととはいえ理解を難しくしている感は否めない。
そもそも原作は無数の外部参照で成り立つ衒学的小説であり、つまりは盛り込まれた情報量に対し圧倒的に説明が少ないのだが、それでも物語上重要な情報にはそれなりの説明が行なわれる。しかし映像では「目に見えるもの」は把握しやすいが背景情報などの伝達は難しく、この時点で決定的に齟齬がある。

(ここからはネタバレになるので隠す。)

原作との相違

まずは原作既読派に向けて、変更点を書き出してゆこう。

フライデー

最大の変更点はフライデーの設定、およびワトソンとの関係性である。原作では単に「ウォルシンガムから与えられた、ワトソンの行動記録のための屍者」に過ぎなかったものが、劇場版では「ワトソンの親友にして共同研究者」に書き換えられた。
これに伴い、「ワトソンの物語」もまた、親友の研究を引き継ぎ、親友の遺骸で以てそれを実践し、研究の完成を以て親友の復活を求める物語として描かれることになる。

M

原作ではあくまで女王陛下の臣下としてウォルシンガム機関の要衝にありグレート・ゲームを動かす人物に過ぎないが、劇場版では恐るべき野望を秘めた悪役として描かれる。終盤の登場は本来ならばヘルシング教授の役割だが、序盤の屍者インストールシーンがヘルシングの指導による大学の講義室ではなくフライデーの私的な研究室に変わったこともありヘルシングという人物は登場せず、Mに吸収された格好である。
なお「卓越した頭脳で政府の政策全般を調整する重要なポストにある」Mといえばマイクロフト・ホームズのことだが、ここで描かれるのはどう見てもシャーロック・ホームズの兄ではない。まあ英国スパイ物などでは「当該のポストにある人物を名前ではなく部門名の頭文字で呼ぶ」風習があったりするっぽいので、Mとは特定個人ではないのだとすれば別人設定でも破綻はないが。「諮問探偵の弟」についての言及は映画内ではなかったし。

屍者爆弾とPMC

映画の冒頭でワトソンが屍者爆弾とロシアの手勢に襲撃を受けるシーンは、原作にはない。本来ならばここでテロの標的となったのはピンカートンPMCとユリシーズ・グラントだし、ワトソンはインド副王リットンによって城の地下で「新型の屍者」を見せられるシーンの筈だが、どちらも丸々削除され、代わりに映画らしい派手な戦闘シーンに差し替えられた。
「新型の屍者」は道中でも印象付けようがあるので削ってもさほど問題はないが、PMCの存在がスルーされたのはこの後に続く「虐殺器官」の世界設定とのリンクを考えると惜しい。
ついでに言えば、屍者爆弾は「脂肪をニトロ化した」ものであるはずだが、ワトソンは単にグリセリンとしか言わなかった。まあこれは些細な話だけども。

カラマーゾフとクラソートキン

アフガニスタン奥地への旅自体は、ほぼ原作通りに描かれている。ハダリーを乗せた馬車を駆るレット・バトラーの姿が描かれなかった程度の差だ。
しかし結末はやや異なる。カラマーゾフが自らに屍者化を施した原作に対し、映画ではカラマーゾフがクラソートキンを屍者化、命令を実行する形でカラマーゾフも目の前で屍者化するという演出になった。そうまでして達成したことは「ワトソンに見せつける」という一点だけ、というのは冷静に考えると雑な話だとは思うが、「ワトソンの視点では描かれないクラソートキンの物語」に話を向けるのは2時間の枠ではとっちらかるだけでもあるので致し方ない。ここは「兄弟や、親友にさえ手をかけた」カラマーゾフにワトソンが自らの姿を重ねることで良しとしよう。
「砕かれた青い十字架」もここには存在しない。

日本編

第二部は大きく省略されている。日本側の主要人物で描かれたのは山澤のみ、場面は大里化学のみ、ライティング・ボールを介したザ・ワンとの交信はなく、代わりにその場での「手記」解析と破棄(未遂)が行なわれ、その後の経緯も「ワトソンがコレラに罹患してハダリーの手当を受けた」のみに留まっており、疫病兵器のくだりや天皇を巻き込む屍者暴走テロのくだりはすべて省略され、グラントの船でアメリカへ向かってしまう。

アメリカ編

第三部に至っては省略と改変甚しく、米国の地を踏むのは「グラントの船で着いた→戦闘→ノーチラスで英国へ」と単なる通過点の扱いである。
従って「ザ・ワンが正体を明かす」場面もなくなり、ノーチラスに乗った経緯もウォルシンガムによる拉致ではなくハダリーの案内によるものとなったため、英国海軍所属の新鋭潜水艦であるはずのH.M.S.ノーチラスは「エジソンが発明した」私有の潜水艦扱いになってしまっている。←これは私の勘違いで、あれはどうやら英海軍のノーチラス級を米国が鹵獲(恐らくは独立戦争の時だろうか)したU.S.S.ノーチラスであるらしい。それがなんで米軍港ではなくエジソンの私邸地下ドックにあるのかは謎だが。貸与されてるんだろうか。

終盤

理路は異なるが展開はむしろ原作に近い。
Mの項で説明したように、本来ならこの場面で現れザ・ワンと対峙するはずのヘルシング教授は消え、代わってザ・ワンを利用し「全人類屍者化」の野望を実現すべくMが現れるものの、「ザ・ワンが"花嫁"を顕現させようとする」流れ自体は原作そのままだ。
ただしここでは「受肉」は行なわれずハダリーの身に魂を入れようとしたため、ハダリーがザ・ワンの機能と対抗する流れではなくなり、代わって「ザ・ワンの中身を上書きされかけた」フライデーがその役割を担っている。

原作と切り離した作品評価

物語が「フライデーの魂を甦らせたいワトソン」を軸に再構成されたため、主役の動機が明瞭になり動きを追いやすい。しかしその分だけ主人公を取り巻く状況の謎に焦点が当たらず、「何が起こっているのかよくわからない」感は否めない。
特にザ・ワンの存在については本来もっと説明が為されるべきなのだが、「ザ・ワンを作ったヴィクター・フランケンシュタイン博士が伴侶の創造を要請されて断っている」ことを知識として知らないと終盤でなぜ唐突に"花嫁"を顕現させようとしているのかさっぱり解らないし、原作と違い「チャールズ・ダーウィンと呼ばれている」ことを説明しないのでイメージと違う老人の姿であることも不明、その上にバーナビーの対戦相手として「怪物映画のイメージ通りのフランケンシュタイン」を出してしまうから尚更わけが解らない。
しかも敵はMとザ・ワンの二重ボスで、同じ機能を使い類似した現象を、異なる目的で実行しているからややこしい。そこは「悪役としてのM」要らなかったんじゃないかな……
また屍者技術の扱いが雑で、「脊髄への薬液注入と電気的刺激を伴う脳への書き込み」という繊細で複雑な技術として扱われていながら、終盤では暴走する屍者に襲われ落命した人物が何の措置もなく屍者として動き、そして再び生者へと戻っているような描写が見られる。そこは無理にハッピーエンドっぽくしなくて良いというか、御都合主義的すぎるのではなかろうか。よしんば致死的ダメージを受けた肉体に非接触で霊素を上書きインストール可能なのだとしても、ならば霊素が抜けた後の肉体はただの死体に戻る筈だろう。
ザ・ワンによる花嫁顕現の時に生じた、青い結晶も意味のわからない演出になってしまっている。恐らくは原作でアレクセイが所有していた青い十字架の欠片、ザ・ワンにより展開されチャールズ・バベッジ機関へと書き込まれた菌株あるいは言葉の結晶、針状に変化しワトソンの頭へとインストールされたもののイメージを表しているのだろうが、映画版では作中いちどもそのような存在についての言及がなく、単に謎の現象として描かれているに過ぎない。「手記」のページが宙に固定される演出も含め、映像的にはケレン味があるけれども現象としては無意味に過ぎる。
エンドロール後の「シャーロック・ホームズ」パートは自らに霊素を上書きしたワトソンが「以前とは別人」ではあるけども「屍者ではなく生者として」活動していることを示すものだが、どうしてそんなことが可能になったのか、についての納得行く説明が一切ないために唐突で意味のわからないシーンとして明らかに浮いてしまっている。

全体として、「生と死の境/意識/魂とは何か」を追い求める物語としては大味になってしまった感がある。まあ元々が概念的な要素だけに、文字で描くことには適しても映像化には向かないテーマではあるのだが、そういう物語を選んで映像化しようというのだから、もう少し気を配っても良かったのではなかろうか。
それでも、「親友の魂を追い求めるワトソンの冒険物語」としては充分に楽しめる作品になっている。よくわからないところはよくわからないままにとりあえず飲み込み、もっとわかりたいと思ったなら原作を読んでみると良いだろう。その時には「用語集」の併読をおすすめする。

それはそれとして、「スチームパンクの映像化」という側面から見ると最も成功した作品ではないかと思う。このヴィジュアル路線はもっと突き詰められてほしい:攻殻機動隊を中心に「サイバーパンクならジャパニメーション」的な印象が形成されているけれど、「スチームパンクならジャパニメーション」になり得るパワーを秘めている。
次は「ムジカ・マキーナ」あたりどうですか。屍者の帝国よりもストーリーはわかりやすいと思うけども。

ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

ムジカ・マキーナ (ハヤカワ文庫JA)

追記:すべての中心にある「M」

色々考えてみるに、この映画の問題点はほとんど「M」の存在を改変したことにある、という結論に至ったので記す。

原作に於いてMとは(「諮問探偵を開業した弟」への言及からも明らかに)マイクロフト・ホームズである。これ自体はほんの小ネタのようなもので、冒頭にしか登場しないMの存在は物語全体にはほとんど影響を及ぼしていない……ように見える。
だからこそ映画では(冒頭シーンの全面的改変に伴い)Mをまったくの別人に仕立てた。これは終盤の弱さを補うために必要な措置だったのだろうが、そのことが別の小さな、しかし重要な歪みをもたらしてしまったことを見落とした:Mがマイクロフトでないならば、エンドロール後にシャーロック・ホームズが登場すべき必然性がなくなり、ひいては主人公がワトソンであるべき理由すらも消失するのだ。
まあ「必然性」というのは難しいもので、それを言うなら第一部で「カラマーゾフの兄弟」が描かれるべき理由も、第二部が日本を舞台とした理由も特にない……という話になるのだが、少なくとも原作では「シベリア送りとなった兄が極圏に消えたヴィクターの手記を入手」「駐露特使だった榎本武揚が手記の写しを日本に」「アリョーシャやコーリャ(というか作者ドストエフスキー)の思想に影響を与えたニコライ・フョードロフの全死者復活思想とザ・ワンの花嫁復活願望の合一」といったかたちで、設定の端々が噛み合って大きな流れにまとまってゆくのに対し、細かな部分を端折った映画版では噛み合いが崩れてあちこちに齟齬を来しており、その最たるものがMの改変、ということになる。

とはいえ、Mを改変せずにこの映画を描いたら、悪役は「ただ花嫁の再臨を求めただけの」ザ・ワン一人で、その目に見える悪事は精々「ハダリーが乗っ取られる」程度に留まり、物語のスケールは随分と縮小してしまう。「映画には世界を滅ぼす危機が必要だ」とは思わないが、さりとてどうすれば世界の危機抜きで綺麗に纏まる(ように見える)のかという話になると、よくわからない。元々がスパイ映画のパロディから始まった作品であるのだし、世界を滅ぼす悪という安っぽさに落ち着くのも(メタ視点では)ありなんじゃないか、とは思いつつも釈然としないものは残る。