「身内」の範囲

日本は身内贔屓の社会であると言われる。例えばなぜ日本人は自由競争も所得再分配も嫌うのか? - Baatarismの溜息通信では「身内贔屓しない状況も身内贔屓が損になる状況も嫌う」が故に自由競争も所得再配分も否定する国民性について触れている。
いやまあ日本人だけが身内贔屓というわけではないし身内贔屓が悪だと断じるわけでもない。興味を持っているのは「一体何をして身内と外を分けているのか」だ。


一般に「身内」という言葉は血縁の近い範囲を示すことが多い。自分の親兄弟や子供、配偶者。あるいはその直接の血縁。法的には、「親族」は6親等までの血族及び3親等までの姻族を言う。即ち6代前までの自分の両親の親系、5代前までの親系の叔父・叔母、甥・姪の曾孫、いとこの孫、またいとこ、6代先までの子系、また配偶者の曾祖父母、甥・姪までが法定親族となる。
とは言えこれが必ずしも感覚としての「身内」と合致するとは限らない。一族揃って地域で暮らしていた時代ならいざ知らず、今や2〜3親等ぐらいまでしか付き合いのない人も少なくないだろう。6代も遡られたって一面識もない。
一方で、血縁関係がなくても親しい友人やその直接の親族ぐらいは「身内」感覚でいることも少なくないと思われる。つまり身内の閾値は必ずしも血縁ではないということだ。


地縁はどうか。友人関係を地縁に分類すべきかどうかは微妙なところだが、何らかの接点があるからこそ友人となったわけで、ネット上の知り合いでもない限りは近隣の住民と関わって友人が形成されてゆくのが一般的ではあろう。もっと地域社会が密であった時代はそれこそ「ご近所付き合い」による身内形成もあっただろうが、代を渡って一つところに定住することの少なくなった戦後社会ではそのような身内感も薄れている。


まあ結局のところ「身内」の枠組みなど不確かなもので、状況により如何様にも範囲を変えるのではあろう。その意味で明確な閾値を定めよと言われてもどうにもなるまいとは思う。
しかし、何故か強固に境界を定められてしまう一線がある:「国籍」だ。
国籍というのは明確な基準のあるものではない。元を辿れば皆「この地に流れ着いた者の子孫」でしかなく、出自を以て国籍を語る根拠など元よりありはしない。が、まあ一応国籍法を布いた時に規定されたものとしてのラベリングではあり、ひとつの閾値として使用不可能であるとは言わない。
ただそうすると「身内」と言いながらも敵を多く含む枠組みとならざるを得ない。まあ国籍で語る身内の主体は大概、自分自身ではなくもっと多きな何かであるから、自分にとっての敵が必ずしも主体にとっての敵ではないということで良しとしようか。しかしそうすると問題は「帰化すれば身内か」である。
帰化を迫ることの是非はさておき、帰化さえすれば身内と言い切れるならばそれはそれでアリだとしよう。しかし現実には帰化者であることを理由に身内からの排斥を期待する石原慎太郎のような下衆もいる。こういう連中の「身内」とは一体何なんだろう。


不思議なことに、自身を中心としない謎の身内認定基準として「天皇の血縁」を持ち出す人も少なくない。しかし天皇の血縁者はごく一握りで、その中に主張者自身を含まないことは明白だ。いや、どうやら彼らは「日本人は皆天皇の血を引く」あるいは「少しでも天皇の血を引く者だけが日本人」と主張したいらしいが。
確かに120代を越える血統である、その縁者の累計は一代あたり兄弟3人程度としても1797,0103,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000,0000人、ええと……1797無量大数103不可思議?なんにせよ、「天皇の血を全く引かない日本人」なんてのがいるとすれば、それは帰化した元外国人だけだろう。それだって血縁皆無かどうかは怪しいものだ。
話は何も国内に限った話ではなく、明らかに渡来系を祖に持つ「天皇家の血筋」を日本人と同程度に引く人は大陸にだって少なくないだろう。従ってこの身内閾値の採用は実質的に「人類皆兄弟」という主張と然程違いがない。


結局のところ身内贔屓とは「俺の好きな奴だけを贔屓する」という純然たる感情論である。それが悪いというのではないが、何らかの根拠を見出して正当化しようと思っても醜態を晒すだけだということは認識した方がいい。