あ〜るとげんしけん(↑)

最初に断っておくが、『げんしけん』はほとんど読んでいない。木尾目士は『四年生』〜『五年生』の頃少し読んでいたが、自虐的で重苦しい印象が嫌で止めてしまった。げんしけんは開始時の2〜3話程読んだ時点でほぼ見限っている。だから正確な批評は望むべくも無い。
が、『究極超人あ〜る』と『げんしけん』をオタク文化部漫画として一括りにしてしまうのは、マジンガーZガンダムを巨大ロボットアニメと括ってしまう程度に正しく、そして間違いであると思う。多分これは「部外者から見れば同じようなもの」で「当事者にとっては絶対に混同してはならない」部分なのではないか。


両作品とも、一般の学生などからは眉を顰められるような日陰者の弱小サークルを舞台としている。しかしその方向性は全く違う。
あ〜るは強い作品である。周囲の目を気にすること無く好きなことをする。その姿勢はそれまで息を潜めて軋轢をやり過ごそうとしていたオタク読者にとっての青天の霹靂であり、ポジティヴなオタク像---どう思われようと気にせず趣味を貫く---を生み出した(かどうかは知らないが、少なくとも私はそうなった)。
対してげんしけんは非常に自虐的である。自身の虐げられている性癖を曝け出すことで、同様の痛みを持つ人間を引き寄せる。極言すればそれはある種の傷の舐め合いとも言える。
この自虐性はある種の同族嫌悪をもたらす効果があり、自虐趣味の無いあ〜る読者層は多分それに耐えられないのだろう。だからげんしけんの読者はあ〜るとの混同にあまり抵抗が無い(とおもう)が、逆は激しい否定にあうのだ。


……え〜と何が言いたいかと言うと、つまり私は『げんしけん』を受け付けなかったということ。