環境問題への否定について

国連の温暖化対策サミットで、スウェーデンの活動家が行なった演説に対して、ネット上で多くの否定的意見が噴出している。
彼女の発言に対して、ではない。発言の「態度」や、発言者の「出自」、あるいは「経歴」、もしくは未成年であることから「背後にいる者に操られているだけ」、あるいはナチスプロパガンダに似ているといった「印象」に対して、である。

当初、私はこれら否定者の「卑怯なやり方」に憤りを感じていた。批判するならするで発言を受け止め正面から反駁すべきであって、発言内容「以外」のところに否定すべき理由をあげつらうのは議論の上で決して行なってはならぬ最低の行為だ。いつの間にネットの「論壇(などと表現するのも烏滸がましい何か)」はこんなにも腐り果ててしまったのだろうか……と。

が、どうやらこの問題は意外に深刻な捻れが原因であったようだ。


私の見た限りの範囲で、彼女の「発言内容」に対して言及していた唯一の例は、経済発展に関するものだった。


「経済発展は永遠に続く」という命題が真であるか偽であるか、という話は経済に疎い私には手に余るので、元発言および反論に対する批判は控える。重要なのは、温暖化への対策を訴える環境活動家にしても、それに否定的な人にしても、概ね「環境対策と経済発展は両立しない」と捉えているらしい、ということだ。

環境と経済が両立し得るのかし得ないのか、それ自体についても私の拙い知識では判断できないので、その議論自体は専門家に任せよう(もしこの問題について一家言お持ちの方がおられたら、見解は是非論文なりに仕立てて然るべきところへ発表して頂きたい。私では受け止めかねるので)。

両立できるのであれば望ましい。それならば経済発展を目指しつつも環境問題に立ち向かい、問題を乗り越えてゆけるだろう。ただ、「経済さえ回っていればそのうち今はない超技術が開発されて環境問題を完全解決してくれるかも知れない」というような期待は流石に楽観と運任せが過ぎるので、もう少し現実的な路線での両立をお願いしたい。

さて問題は「両立できない場合」である。

環境か経済か、どちらか一方しか選択肢がないのだったら、どちらを優先すべきなのか。これは実に苦しい問題である。
今を生きる我々は経済を無視しては生活できない。もし経済の悪化を容認するとしたら、そのことによって生活が圧迫され、死者だって増えるだろう。
一方で環境問題は、今すぐにではなくともじわじわと、人類全体に襲いかかる。私の生きているうちには表面化しないとしても、数世代先にはもう取り返しが付かなくなっているかも知れない。
破滅的なトロッコ問題だ。「この線路の先には人類の破滅的な未来があるが、ポイントを切り替えると代わりに経済の破綻が待っている。トロッコ問題について訊くと少なからず「ポイントを切り替える行為によって自分の責任問題になるのが嫌なので放置する」という答えが出るそうだが、状況的にもそれと似ている。政治家にしてみれば、国内経済を悪化させて支持を失ってまで未来の環境に対処すべき理由がない、ということなのだろう。
むしろ「共有地の悲劇」として見るべきという指摘もあった。長期的全体的な利益と短期的個別的な利益が相反し、かつ競争原理の介在によって「長期的利益の減少を無視して短期的利益の最大化を狙う」ことが各自の最適解になってしまう。そのことによって環境の悪化を早めるとしてもなお、「それで他プレイヤーに負けるよりはまし」という判断が下される。目指すは短期的な発展と長期的な絶滅だ。

で、どうやらこの「本音としては経済発展を手放す気など毛頭ない(ので環境問題へは取り組まない)が、建前として環境問題を無視するとは言えない」という心理が、冒頭で取り上げた「発言者を貶めることにより発言そのものをなかったことにする」という態度に繋がっているらしいのだ。

余談ながら、この対応は発達障害者によく見られる問題の先送り行為にたいへん似ている。
発達障害では、気が進まないことを実行しようとする場合に強い拒絶を生じる。そのため、しばしばやりたくない行為の存在によるストレスを、忘却によって緩和する。できれば発覚した頃には手遅れになっており実行しても無意味な状況になることを願いながら。
今起きているのは、まさにそういう類いのことだ。環境問題への対応は気が進まない(それによって経済が減速するならば尚更)。どうせすぐには問題が深刻化しないだろうし、手に負えなくなるまで放置すれば対応しなくて済むんじゃないかな……

ところで実は、更に悪い可能性もあるのだ。つまり「環境と経済の両立どころか、そもそも環境対策はもうとっくに手遅れ」という可能性である。