熊本に行ってきた。
ここが熊本である。
その証拠にほら、くまモンの姿も。
というのは嘘で、ここは都心から近い観光地、箱根である。
……実は、熊本に行くつもりで飛行機と宿の予約を済ませ休暇も取ってあったのだが、当初の予定日に仕事が入ったために日を後ろにずらし……たはずが元の日付で予約してしまっていたらしい。空港のカウンターではじめて「もう日を過ぎていた」ことに気付いてしばし呆然とした後、「じゃあ今日取れる宿を取って他の場所に行こう」ということになった。
元々は重要文化財の温泉宿「日奈久温泉 金波楼」に泊まるつもりでいたのだが、代わりに他の重文の宿をということで探してみたところ、箱根湯本温泉の萬翠楼 福住に空き室ありとのことで、急遽予約を取って行き先を変更。
安からぬ金額を無駄にすることにはなったが、まあ滅多にない経験と笑いのタネになったので良しとしよう。
なにしろ熊本のつもりでいたので箱根については何の下調べもない。ひとまず登山電車のフリー切符を買って箱根山に上がってみることにした。
ケーブルカー→ロープウェイを乗り継いで芦ノ湖遊覧船というルートも考えたが、現在はどうやら噴火警戒レベルが2に引き上げられているためロープウェイは運休、代わりにバスで迂回は可能なのだが遊覧船も霧のため運行を減らしており、つまり登山ルートは日が悪い。
というわけで箱根登山鉄道である。小田急線の終着ホームから直に乗り換えることができる。
これが実は非常に撮り鉄度の高い絶好の路線であった。なにしろ大正8年(1919年)開通の登山鉄道であり、粘着式(=ケーブルやラックなどを用いず車輪と線路の摩擦力のみによって走行する)鉄道としては日本一/世界でも二番目という80‰の急勾配(碓氷峠でも66.7‰である)や、旋回半径30mという急曲線は他の路線では例を見ない。温泉地であるため水源に影響を与えぬようトンネル掘削が制限されたため、山肌に沿って登るしかなかったことによるものだという。
まあ蘊蓄はさておき、急勾配と短かいトンネル、それにスイッチバックによる高低差軌道が楽しめる、なかなかにフォトジェニックな路線であった。
途中、鉄道橋の上から眼下を流れる早川を眺めることができるのだが、撮影しようと思うとどううしても鉄骨を避けられない。これは車で塔ノ澤橋へ行かないと難しそうだ。
トンネルを抜けた後、最初のスイッチバックを行なう出山信号場は単線である箱根登山鉄道線の行き違い待ちを行なうため、しばし景色を眺める余裕がある。ここからは眼下に先程通過した早川橋梁と塔ノ澤橋が撮影できる。
創業当時に導入された木造チキ1形をベースとするモニ1形、1927年チキ2形ベースのモニ2形がまだ現役である。これらのタイプは窓が少し開くので、ガラスの反射なしに景色を撮影することができる。箱根寄木細工柄のシートカバーも楽しい。
大きな窓の3000形「アレグラ」は窓枠に邪魔されず前面の景色が撮りやすい。それでも車内の明かりが少し写り込んでしまうが。
終点は標高541mの「強羅」駅。
ここからは山頂方面へ向けてケーブルカーに乗り換えられるが、今回はバスで美術館を巡ることにする。湿性花園行きバスは箱根美術館、ポーラ美術館、星の王子さまミュージアム、箱根ガラスの森美術館、箱根ラリック美術館を経由して湿性花園へと向かう、見所の多い路線である。
まずはポーラ美術館へ。
www.polamuseum.or.jp
ここはガラスを主体とした建物が美しい。
2019年12月1日まで、「シンコペーション」と題して、所蔵する名画と現代アートの対比展を開催している。モネ「睡蓮」と対比される、 セレスト・ブルシエ=ムジュノ「クリナメン v.2」は円形のプールに白い磁器のボウルを浮かべ、水流で触れ合って音を立てる作品で、心地良い音が楽しめる。撮影できないのが残念だ。
個人的に好みだったのはマグリット「前兆」と対比される、青にこだわりのある石塚元太良の写真。
それからダリ「姿の見えない人、馬、獅子」と対比される、アリシア・クワデによる鏡と照明のインスターレション。
他にも色々な対比が試みられ、単によく知られた「名画」を見るのとは異なった趣きが感じられる。
全体にキュレーターが良い仕事をしているなと感じられる展示だった。
ポーラを出て、次はラリック美術館へ。ここはアール・ヌーヴォーおよびアール・デコを支えた宝飾・ガラス器デザイナー、ルネ・ラリックの作品を収集展示している。残念ながら撮影禁止なのだが、「ミュシャ以外のアール・ヌーヴォー」に興味ある向きには大変面白いだろう。
庭にはクラシックカー、赤いフォードT・ツーリングが置いてある。なぜルネ・ラリック美術館にフォードが、と思ったらヘッドマークがラリックの作品なのだそうだ。館長は元々クラシックカーのコレクターで(大宮にそちらの博物館もある)、収集中にヘッドマークのコレクションを始めてしまったのがラリックへの傾倒に繋がったのだとか。
庭には他にサンキャッチャーが下げられていたりして、ガラス系美術館っぽさが感じられる。
なぜか根本にはカタツムリの殻が。
このあたりはトンボや蝶が多く見られた。
青い橋のかかった「モネの池」もあるのだが、これは館内からしか見ることができないため撮影できず残念。
この日はこれで山を下ることにする。強羅駅へ戻り、登山鉄道で箱根湯本へ。
ひとつ手前の「塔ノ沢」駅は無人駅で、降りる時に車掌が交通ICリーダーで検札を行なう。
ここはホームに銭洗弁財天が直結している。というか、他に何もない。そのため乗降客がほとんどなく、鬱蒼と茂る森の中の神社という空間を独り占めできる。
赤く大きな提灯には、白い円に黒々と卍が。わかってはいてもこの配色はちょっとドキッとする……
少し登ると、いくつか鳥居をくぐった先に小さな祠洞が。
箱根湯本へ戻り、宿へと向かう。
道沿いに進み、橋を渡る。
突き当たりに大きな破風屋根を持つ木造旅館が見える……のだが、これは昭和初期創業の萬寿福(ますふく)旅館で、今回の宿ではない。
右へ入ってすぐが萬翠楼 福住。外観はぜんぜん古そうに見えないが、寛永年間……1625年頃の創業だという、箱根でも随一の老舗であり、建物もおよそ140年前のものが今も現役で使われているのだという。
www.2923.co.jp
今回の部屋は「新館」の方だが、それでも前述の萬寿福と同じ頃の建物であるという。
部屋に通され、茶と一緒に「湯もち」をいただく。
これは今しがた渡ってきた橋のたもとにある和菓子匠「ちもと」さんの商品だそうで、角切りにした羊羹が、柑橘の香るマシュマロのような食感の「もち」に包まれている。
まずは温泉に漬かり汗を流してから食事となる。
正直なところ、碌にチェックもせず「今日泊まれる重文の宿」というだけで来てしまったのだが、萬翠楼 福住は料理のすごい宿だった。
とにかくご覧いただこう。
まずは涼味。
オクラのムース、鬼灯玉子、無花果天麩羅に抹茶塩、夏の地魚龍皮炙り寿司、水海月酢浸し、白瓜雷干し粉鰹まぶし、ラム肉香草焼き白ポン酢ジュレ。
向附け。
小田原漁港地魚を含む5種盛り。
吸い物。
主菜は黒毛和牛サーロイン陶板ステーキか鮑の踊り焼きバター風味。
コリコリした蒸し鮑しか食べたことがなかったので、生鮑の蒸し焼きがこんなにも柔らかなものだとは初めて知った。
副菜は胡麻豆腐。
もっちりした作りたての胡麻豆腐に胡麻ペーストと摺り胡麻がたっぷり。
冷菜。
野菜、みる貝、穴子の炊き合わせに凍らせた出汁を載せて。
焼き物。
水茄子の照り焼き、夏鮎の化粧焼き2種、茗荷の出汁醤油漬け、それに骨煎餅。
手打ち蕎麦と香の物3種。
汁が甘口なのは箱根風なんだろうか。
最後は甘味。
西瓜シャーベット、黒胡麻ムース、マンゴープリン、ソルダム、小豆氷室羹、白桃コンポートゼリー、グレープフルーツクリームのブリュレ、アンデスメロンのスフレ。
もう既に満腹なのでは、と思いつつも一品あたりの量は控え目に作られているのとどれも驚くほどに美味なのでついつい箸が進む。
これを味わえただけでも、この宿にして良かったと思える料理だった。
朝早くの飛行機に乗るつもりで随分早起きしたので、この日は早々に就寝。その分朝早くに起きたので朝焼けを見ることができた。
さて、朝食もまた豪勢だった。
流石に夕食のようなコース料理ではないが、それでも15品ぐらい付いてくる。鍋に入った白いものは豆乳で、固形燃料で温めて引き上げ湯葉を食べた後、にがりを混ぜて豆腐にして食べるという二段構え。「付属のスプーンで混ぜてください」加減がわからずに混ぜすぎたらモロモロになってしまった……2、3回混ぜたら放っておけば良かったらしく、愛妻のはちゃんと豆腐に。
食べ終わった頃には、外は雨になっていた。
「重要文化財の建物と聞いて楽しみにしてたんです」というような話を中居さんとしていたら、「お泊まりの方がおられるのでチェックアウト後でしたら中をお見せできますよ」とのことで案内して頂くことに。少しの間写真を撮らせて頂くぐらいのつもりでいたら、なんと宿のご亭主直々に解説して頂きながらの見学に。
有名な天井画の間や、
差渡し2mはあろうかという一枚板の天井、
敢えて透かし彫りなどを施さない一枚板の欄間は神代杉だという。
当時はわざわざ建材に使用した木材のリストを印刷してあったそうで、つまり材を見て素性がわかる教養の持ち主が泊まったし、それが粋な遊びのひとつともなったのだろう。
室内の照明を落とすと自然光のみに照らされた、建築当初の頃の雰囲気が甦る。
明治初期頃の萬翠楼 福住は政府要人方の定宿というか、半ば避暑地の別邸に近い立場だったようで、従者や警固など二十数名を引き連れて一棟貸し切って1〜2ヶ月ほどを過ごしたのだそうだ。単なる休暇ではなく、自邸に招くほどには親しくない相手との会談の場なども兼ねて、「お帰りの折には仕事が捗られたそうで」つまりここで歓待、根回し、密談、折衝をこなしていたということらしい。
宿を辞して再び駅へ向かう。
芦ノ湖遊覧船は運休だったので、前日と同じく登山鉄道 強羅駅からバスに乗り、今日は星の王子さまミュージアムへ。
www.tbs.co.jp
ここではタカラッシュ ブラックレーベルによる謎解き「星の王子さまと導きのダイス」が開催されている。
blacklabel.takarush.jp
この手の謎解きとしては難易度が低く、子供と一緒でも楽しめそうだ。
ガラスの森美術館などにも行きたかったが、雨が強まりそうだったため断念して下山し、ロマンスカーで現世へと戻る。
今回、鉄道を撮る機会に直面して「単焦点の不便さ」を思い知らされたので、次の旅行に行く時はズームレンズを導入しようと思う。沿線からの撮影ポイントなども研究したいところだ。
萬翠楼 福住は素晴らしい宿だったのでまた泊まりに来たいが、箱根には他にもいくつもの古い宿があるので、それらにも行ってみたい。
今回巡れなかった美術館や、大涌谷方面もいずれは見に行きたいし、まだまだ遊び足りない。
都心から片道2時間ぐらいで来れる絶妙な距離なので、もっと頻繁に遊びに行こう。
箱根、おすすめですよ。