色々な意味で「大変な映画」である。
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原作者の五十嵐大介は、圧倒的な描写力の画風とスピリチュアルな世界観で知られる。その画風をそのままに動画に起こす試みについては、Studio 4℃の技術力が見事にそれを成し遂げた。まずはそのヴィジュアルに翻弄されよう。
俳優の演技も自然で、「誰が声を当てているか」という余計なことを思い起こさずにすっと耳を通る。
エンディングテーマを歌う米津玄師は原作のファンで、自ら売り込んだというだけあって見事に原作を踏まえた歌詞を乗せた。
あらゆる点で一流の仕事によって作られたこの映画の中でたった一つの、そして致命的な欠点が「脚本」である。
元々がコミックスにして5冊分の分量がある物語だから削ぎ落とさざるを得ない部分は出てくるし、一筋縄では行かない物語を噛み砕いて再構築する必要があるのは致し方ない。しかし作品の核を見誤ったままにそれをやると、落としてはいけない箇所を落とし、砕いてはいけないものを砕き、結果として元の形がなくなってしまう。
「海獣の子供」は、正にそれをやってしまったのだ。
表面的には、素晴らしい技術に支えられて原作の形を見事に写し取ったように見える。実際、その迫力は素晴らしく、それだけに「なにか凄いものを見た」感動を覚え、傑作を見たような錯覚に陥る。しかしその内実は単なるハリボテであり、なまじ表面加工の技法に凝っているが故に名品に見えはするが、その中心には何もない。
賛否いずれの感想も口を揃えて「わからなかった」と言う。それは決して「難解な物語だから理解に時間がかかる」のではなく、単に「理解すべき内容がない」だけだ。逆に、これだけ中身のないものを、演出のみで何らかの感動を励起するまでに高めてみせた(脚本以外の)技術には敬意を表したい。
(以下、多少のネタバレを含む)
まずは原作者と監督のインタビュー記事を紹介しよう。
web.archive.org
この中で原作者自身が語るように、「海獣の子供」という作品の核は「海に纏わる証言」にこそある。世界各地の海洋民族に伝わる(あるいはそういう体で語られる)神話伝承、また実際に遭遇した(とされる)不思議なできごと。それらが繰り返し、多数の視点で描かれることで、「物語と現実世界の結び付き」が織り上げられてゆく。それが故に「海の中でカイギュウに育てられた子供」に、「宇宙から降ってくる生命の源」に、一定の説得力が付与され、その先にこそ「壮大なイメージのみで描かれる宇宙、生命、すべての答え」が収まるのだ。
しかし映画はそうした文化人類学的な要素をばっさり切り捨ててしまった。代わりに構築されたのが「少女の、一夏の経験を通した成長」という、まったく別の軸だ。
その結果、「祭」は本来あるべきバックグラウンドを失い、単に無意味なイメージの奔流が延々と続くだけのつまらぬシーンに堕してしまった。神話に支えられていた筈の「意味」はどこにもなく、ただ「何か宇宙っぽい」ものが吐き出されているだけだ。
挙句、すべてが夢に過ぎなかったかのようにつまらない日常に引き戻し、あまつさえ「ちょっといい話」にまで落とし込むことによって、ここまでの2時間をなかったことにしてしまった。
それならばいっそ、空が海中に消えたあたりで物語を打ち切り、強引なキスを残して消えた少年との淡い恋……にでもしてしまった方がまだマシだったとすら思える。
これ以外にも細かい問題はいくつかあるのだが、上述したほどに致命的な箇所でもないため割愛する。
ひとつだけ指摘しておくならば、原作序盤で語られた「幽霊の椅子」のエピソードを切り捨て、琉花が「海の幽霊」と呼んだ魚の発光消失現象もはっきりと描かなかったために、せっかく原作をきちんと噛み砕いた主題歌「海の幽霊」の歌詞が、何を指しているのかわからないままに浮いてしまっているのはあまりに勿体ない。
繰り返すが、脚本以外の一切は素晴らしい仕事をしている。それゆえ贅沢な映像と音の奔流に身を委ねても満足感を得られはするのだが、なにか空疎な虚を抱えてもやもやしている方はすぐにでも原作を読んで、足りないものを満たしてほしい。
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