20年ぶりに一新される新紙幣のデザイン案が色々と話題である。従来の紙幣レイアウトからは趣を変えた、見慣れぬデザインゆえに少なからぬ反発も生じているようだ。
デザインの善し悪しはさて措いて、五千円札に使用される津田梅子の肖像がオリジナル写真から反転されていることについて批判が出ている。
津田梅子新五千円札の話。
— Yota Kakuda (@YotaKakuda) 2019年4月16日
若いデザイナーや学生には特に伝えたいのですが、顔写真反転加工して印刷物作成はアウトです。図案の反転とは訳が違う。
発行時にはデザインの方が調整して正に戻ると思いたいですが、このままに肖像権侵害を国家が行うなら、文化の底が知れる。「文化が生まれ育つ」の逆。
ここまで意識や水準が劣化したのかと驚愕させられる。左右の反転を問題ないとしてしまう姿勢は、現実や事実へのリスペクトを欠くという意味で公文書の改竄と通じるものがあり、今の日本政府を象徴している。→津田梅子の写真反転か 新五千円札の肖像画 財務省「問題ない」 https://t.co/spP4DKBdFi
— 想田和弘 (@KazuhiroSoda) 2019年4月16日
や~、これは「問題ある」でしょう。新聞だって、裏焼き写真掲載したら訂正するレベル。日本国の通貨でこれやっちゃ、ダメじゃん →津田梅子の写真反転か 新五千円札の肖像画 財務省「問題ない」 https://t.co/Gp0i8vfWMP
— Shoko Egawa (@amneris84) 2019年4月16日
津田梅子氏の肖像を反転使用。
— 諏訪敦 Atsushi SUWA (@suwakeitai) 2019年4月16日
私は肖像画を手がけることが多いので、その経験からいわせてもらうなら、「問題ない」わけないだろう。
偉人の顔まで改竄してどうする。 https://t.co/QiXRFt06jj
ちょっと気になったので考えてみる。
著作人格権と肖像権
著作者人格権は、大雑把に「著作権」と括られる権利のうち、譲渡できない「著作者の名誉」に関わる部分の権利である。この中に「同一性保持権」があり、著作者は改変を禁じる権利があることになっている。
写真の反転も改変であるには違いなく、従って新札のデザイン案は同一性の保持に抵触している。
ただし、この写真の場合に著作権が存続しているかどうかは疑わしい:現在もなお著作権が存続しているためには2019年の50年前(1969年)まで撮影者が存命である必要があるが、当該の肖像写真は津田梅子が開校した津田塾大学開校当時(1900年)撮影のものであるらしく、1900年当時に撮影技術を有した人物が1969年まで生きられたかというとかなり怪しくなる。仮に撮影当時に20歳だとして89歳まで、有り得ないというわけではないが今よりも平均余命の短かかった時代の生まれであり、なおかつ数度の戦争や震災などの激動を鑑みると、存命可能性はかなり薄そうだ。
そもそも、仮に著作権が存続していたとして、反転使用に異議を唱える権利があるのはあくまでその遺族のみである。外野がどうこう言うべきところか。
(ところで今回の話とは直接関係ないが、写真の反転と同一性保持の関係性について言えば、「裏焼きかどうか」は重要ではなく、「発表された形態と差異があるかどうか」の問題になる:写真はあくまで表現の道具であり素材に過ぎないので、撮影者自らが発表に際し反転させたり修正したような場合、そこを含めて適用したものこそが「オリジナル」であり、軽々に素材の状態へと戻すことは許されないという話になる。)
肖像権の方は更に微妙だ:肖像権自体が、法的な定めの明確でない代物であり、「人権の一概念として提唱されつつある」域を脱していない代物なので、どこまでがOKでどこからがNGなのかの線引きは難しい。
そもそも顔写真の反転使用はどこまでNGなのか。人の顔は厳密ではないがおおよそ左右対称に近い構造であり、反転の違和感はさほど強くない。無論、ほくろなど目立つ特徴がある場合や髪の分け目などを非対称にしている場合、また服が左右対称なデザインでない場合などの問題は発生し得るが、当該の写真について言えばおおよそ左右対称で着物の合わせが問題になる程度でしかなく、写真をそのまま使用するのではなく絵に描き起こした上で細密銅版画に起こすのだから当然ながら着物の合わせなど修正済であり、それが肖像権を侵害すると言えるかどうか。
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更に言えば、津田梅子自身は1929年に亡くなっている。著作権でさえ死後50年で消失する以上その肖像権もとうに失われていると考えるべきだろうし、だいたい生涯未婚を貫いた津田梅子には肖像権を受け継ぐべき遺族もない。
肖像の反転はNGか
「たとえ著作権や肖像権が許しても文化的にNG」的な反応も少なからず見られるのだが、他国の紙幣や日本の過去紙幣でも反転は見られる。
たとえば米1ドル紙幣のジョージ・ワシントンや2ドル紙幣のトーマス・ジェファーソンは、その元となった肖像画から反転されている。
あるいは日本の新旧500円札に使用された岩倉具視も反転である。
とすれば、少なくとも「紙幣の肖像画を元写真から反転で描くのはNG」ということはなさそうだ。
もちろん、写真を反転使用すること自体、原著作物としての写真の撮影意図を損ねる場合があるし肖像権の侵害となる場合もあり、軽々にすべきことではないが、それと今回の新札デザインでそれが許されないかどうかとは別の話である。
なぜ反転しているのか
反転してはいけないわけではない、という点はご理解いただけたかと思うが、それはそれとして「なぜわざわざ反転させたのか」についても考えてみよう。
新五千円紙幣のデザインは、右側に肖像画、左に額面および透かしというレイアウトになっている。この配置であれば、人物像は左向きであるべきだ:一般に顔が描かれる場合は見る者の視線が肖像の視線方向に誘導される傾向があり、それは左側の額面に向かうのが正しい。
ならば左側に肖像を配置し右に額面を置くようにすれば、わざわざ反転した肖像を作る必要もなかったのではないか、というのはもっともな疑問である。これについては「他の紙幣に合わせた」のだろうと思われる。
これまでに発行された日本円紙幣を確認すると、いずれも右側に左向きの肖像を配置していることがわかる。唯一の例外は肖像画のない二千円紙幣だが、これも右に置かれた守礼門が左向きになるようレイアウトされており、肖像と同様の視線誘導効果を発揮している。
従って新紙幣についてもこの基本レイアウトを崩さぬ形でデザインする都合で肖像の反転が行なわれたものと考えられ、この点についてはデザイン技法上妥当な判断であると思われる。