早くから、所謂「産業革命」が起こり機械化の進んだ英国では、1820年代には大型の蒸気自動車が発明され乗合自動車の運用が開始されたが、これは明確に既存の馬車産業と衝突するもので、また先行した鉄道事業にも影響を与えた。これら競合する事業者たちは早くからこの「蒸気の馬車」の脅威を認識しロビー活動を展開、その結果として悪名高き「赤旗法」が施行されるに至った。これは蒸気自動車の移動に先行し赤旗を持った徒歩の人物が周辺に自動車の到来を警告することを義務付けるもので、運行速度が歩行者並みに制限された蒸気自動車には交通機関としての利点がなくなった。
その状況を、蒸気自動車発明家らがただ手をこまねいて見詰めていたわけではない。彼らはとりあえず事業を存続させるために低速が妨げにならぬ蒸気トラクター開発などに活路を見出しつつ、同法の穴を探した。着目されたのが、この法に於いて制限の対象となる蒸気自動車を(1)機械装置による動力(2)車輪による駆動(3)レールを用いないもの、と定義していたことである。
これは勿論、既存の馬車にも鉄道にも制限がかからぬように配慮したためであるが、結果として「車輪を持たぬ自動交通装置」という抜け穴を抱えることとなり、これが蒸気歩行車両として結実した。通常ならばこのような新規の発明品は特許によって保護され占有されるのが常であったが、この時は明確な狙い撃ちを腹に据えかねた発明家らがこの新発明を「共有」したため、歩行車両は瞬く間に広まった。
馬車組合や鉄道事業者らは慌てて赤旗法の改訂を試みたが、その頃には蒸気歩行車両事業者らも力を付けており、法そのものの撤回には至らなかったものの歩行車両を制限から守ることには成功し、かくして英国内だけで発展する自動歩行機械産業が成立した。
当然ながら同法は英国内にしか制限を加えておらず、従って英国外ではこのような異端の機械が発達することはなかったが、それがクリミア戦争以後に兵器開発に於ける絶大なアドヴァンテージとして機能することになる。
グレイヴの活躍を目のあたりにした各国はこぞってこの新兵器の模倣を試みるも、歩行機械装置についてのノウハウでは数十年の開きがあり、一朝一夕にコピーできるものではない。そもそも英国外では利用価値のない機械であった蒸気歩行車両が国外で売られることはほとんどなく、少数の好事家が自家用に購入した事例がある程度である。また英国はグレイヴの開発成功による軍事的優位を悟り、素早く歩行車両の輸出・技術提供を禁じる法律を制定したため、諸国が技術を導入するのは困難であった。
このため独自の歩行車両開発は遅々として進まず、平行して代替手段の模索が続けられたが、いずれも芳しい成果を上げたとは言えない。フランスなどでは塹壕突破戦力のコンセプトとして幅広の履帯を備えたトラクターの転用を試みたが、グレイヴによって掘られた塹壕は(グレイヴの隠蔽も兼ねて)しばしば従来の人力塹壕よりも深く広く取られたため、車両による突破は困難であり、この路線は事実上放棄された。
クリミア戦争は、この後の基本的な戦争形態となる総力戦の先駆けであったと言える。参戦した各国が自らの持てる技術と生産力の限りを尽くして短期決戦を挑み、互いの戦力拮抗によりそれが長期化する。無論それらは政治的な駆け引きの先に生じるものであり、戦勝国にはそれなりの意義があった筈だが、さりとて国際政治上の利益というのはすぐに国内に反映されるものではなく、むしろ国民の目には経済の疲弊が目立つのは道理である。蔓延した厭戦感の影響もあり、この後しばらくヨーロッパには戦火が起きなかった。従って英国も唯一のグレイヴ保有国というアドヴァンテージを生かす機会を得られず、周辺諸国の追随を許すこととなる。