片方の意見が見えない

賛否両論、というのは本来ならば双方にそれなりの言い分があるからこそ生じるものの筈だ。しかし最近話題になっているものを見るに、賛否いずれかが明確に見えないにも関らず賛否両論に分かれてしまうものが少なくない。
例えば外国人参政権問題。賛成派の言い分は要約すれば「定住者に自分の住環境改善のための権利を付与するべき」と明白なのに、反対派の言い分がよくわからない。共通しているのは「外国人だから駄目」という部分だけのようで、何故外国人だと駄目なのかを説明しようとしていない。
あるいは東京都の非実在青少年表現規制条例。こちらは逆に、反対派が「表現の弾圧」「排除基準が曖昧であり都知事権限で濫用されかねない」「適用範囲が広過ぎる」など問題点を明示しているのに対し賛成派は「全面的に協力するのが都民の義務」などと、正しさを主張しつつも正しいとする理由を明示していない。
少ないサンプルからの推論では、「その場に於ける多数派の側が説明の必要性を認識していない」ことが多いように思われる。
……それってつまり、自分の頭で考えての意見じゃなくて、単に空気に流されただけじゃないの?


正論でなくても空気を作る、つまり同調圧力を利用することで世論を操作することは可能だ。例えばドイツでナチ党が圧倒的支持を得てヒトラー独裁の体制を固めた1933年選挙の投票率は実に全有権者の96%、うち92%はヒトラーを支持したとされる。勿論その裏にはある程度の得票操作やら世論操作があっただろうが、全国民を操作することなどできる筈もなく、要するに「皆がそう考えている」と思わせるに足る演出をしてみせたということ。
自分の意見だと思っているそれは、本当に自分で考えて判断してのことだろうか?その正当性を、感情論ではなく理屈できちんと説明できる?